豊さん

郷に入っては郷に従うという精神なので、こちらの生活は楽しい。スペインから3時間ほど移動して、今はイギリス。ピナーPinnerという街にいる。ロンドン郊外、東京でいえば小金井くらいのシチュエイション。かれこれ35年のつきあいの豊さんの住む町。落ち着いた過ごしやすい住宅街。豊さんの家族は全部で4人、奥さんと9才と12才の1男1女だ。彼は英国に8年住んでいるがそこを僕が訪ねるのは初めて。日本だったらもう一軒建っているような広い庭の家、昨年買ったのだそうだ。大きな庭木、あじさいの咲く家。ユダヤ人が多く住むという町並み、近くにシナゴーグ(シナゴガ)がある。
7月の夏休みに入った所で、子供たちは家にいる。バイリンガルの二人の子供はかわいい盛り、日米英の3つの国籍を持つ。将来どんな大人になるのか楽しみ。彼のオフィスはこの街にあるから、歩いて出勤している。職住接近の好例。とはいえ工場がヨークシャーとオランダにあり、お客は全ヨーロッパにいるので、一ヶ月の半分は出張している。企業戦士のひとりだ。古い友達と会うと時がスッと遡って高校時代に帰る、いまはもう50の二人なのに。もしローマ時代に友達がいたら、やっぱり会ったとたんに記憶の坂道をたどって、ローマの道ばたに立っていられるのだろうに、自分の寿命が100年もないのがうらめしい。それでも、やっと半世紀生きたことになる。ずいぶん長く感じたが、人類3万5千年の歴史の中では、ほんの瞬きの間。でもその間に人類はすでに宇宙に手を伸ばしている。この後の半世紀に何が起こるのかたのしみ。
豊さんに紹介してもらった、B&B(ペンション)Grange Guest Houseに行く。マラガからロンドンにきて、雨がこんなにうれしいなんて思わなかった。なにせ50日間雨を知らずに過ごした後だから。しっぽりぬれる緑の生け垣をくぐって、数百年を過ごした玄関と1687年の刻印のある暖炉のある応接室を抜け、すり減った階段を上る。年月を経た木の床の部屋。それぞれが静かに自分の過ごした年月を主張している家具に囲まれて眠る。豊かな落ち着き。庭のトネリコが250年生きてるんだよと語りかける。自分が自分に還る、内部への回帰。遠い昔英西戦争に勝利した時、この家はもうここにあった。時を越えて生きながらえる力があるなら、4000年を遡って、ローマの一市民に聞いてみたい。人が生きる時何が必要か、何が幸せかと。宗教は新たな権力を生むだけで、人間の幸せを想うにはいたらなかった。僕の体に流れる血はそう言わせる。いくら祈っても僕の体は元には返らない。医学の進歩に期待して今はあるがままに生きていよう。
ここには落ち着いた古き良き時代の風情があって、のんびり過ごすには良い。古い家具、古い床、鶏小屋のある環境。古い階段、部屋の天井の柱は、宿の主人が時間をかけて磨き上げている。寝る部屋にはテレビも電話もない。テレビを見る時は階下の応接室へ行く。
部屋は一室一室全部違う、大きさも家具も。そこにその大きさの部屋があったのだ。宿の主人の趣味が出る。古い家を買い取って、アンティークの家具を入れ、ペンキを塗り、柱の釘、屋根の猫の飾りに至るまで、自分の趣味で時間をかけて仕上げてある。ロンドンの真ん中で生まれ育っただけに、逆に古いものを求める。これが良いと思えない人はヨーロピアンスタイルを理解することはむずかしい。ノボテルでも行ってとまればいい。都会生活は便利だが神経が疲れる。わら屋根の宿に泊まって、いろりを囲んで、古い鴨居をながめてほっとするような感覚と同じ。その上奥さんは長岡出身の日本人だから、気楽。朝の卵焼きがおいしい。朝にわとりが生んだばかりだから当たり前。
ボンに世界の人が泊まりたい宿、第一位の5つ星ホテルがある。大きな庭と独立した建物に4〜5室ずつの部屋、小鳥のさえずりの中での朝食。おいしいパン。そばには芸術家の村があり、静かな眠りのなかで生活を楽しむようになっている。夕食は一流コックの手になる。一流コックはいないが、あまりここと変わらない。あちらは40室こちらは4部屋しかない。4人しか泊まれないのが難と言えば難、逆にその方がいいと言えばいい。
床屋
床屋には髪を短くしているので3週間に一度は行く。まだスペインで一度も気に入った床屋に当たらない。おおざっぱで、仕上げという感覚がない。最終的に少々凸凹あっても平気。髪を切り終わったら、ブラシでさっさと払って終わり、洗いもしない。ひげを当たることもない。顔にクリームをつけることもなし。もちろん早いし安い。1000円くらいのものだが、日本の床屋になれていると、不満だらけだ。イギリスならば事情が良くなるかと豊さんに聞いたら“同じだ”という。彼は日本人の床屋に月1度家まできてもらっているそうだ。やはり日本人がいいと言う。俳優なんかはさっそうとした髪をしているのだから、そういう人の出入りする床屋に行けば、ちゃんとした仕上がりになるのだろうが、20倍はするに決まっている。庶民であることを誇りにする僕がそういう所に出入りすることも面映ゆい。
歯医者もそう。スペインでもデンタルケアーが話題にはなっているが、ヨーロッパでは基本的には悪くなった歯は抜く。日本で大事に削って維持してきた歯を、えいっと抜かれてはかなわないから、まだスペインで歯医者にいったことはない。そのせいか街を歩くとやたら歯医者が目につく。僕は右半身の血流が悪いので、放っておくと右の歯が歯槽膿漏になりやすい。東京では一月に一度歯医者に行って歯石を取ってもらっている。そのプラークをスペイン語でなんというかが、僕の持っている西和辞典には載っていない。こんな状態で医者には行かれない。2ヶ月後には帰るのだからそのままでいいか、英西辞典を買ってプラークをひくか、どっちにしよう。
英会話
ここには日本人社会がちゃんとあるから、寿司屋、ラーメン屋、定食屋、日本人のいる病院、床屋、何でもある。その気になれば日本語だけで過ごせる。オリエンタルセンターに行くと、アジアの店が集中してある。客もアジア人。スペインの田舎とは絶対違う所。社命で仕方なくここに来ている人たちや家族は別として、旅行者は英語会話の勉強が主流のツアーなんて迫力があってもおもしろいと思う。日本は実用的でない割に英語教室の氾濫がちょっとすごすぎはしないか。確かに英語は必要だが、英語教育も文法とヴォキャブラリーと会話の3本立てで初めて役に立つのだと思う。専門書が読めて論文が書けて、話せない。なんて、教え方が悪いに決まっている。最近は外人教師を置いたりして少し良くなっているみたいだ。もう少しの努力だと思う。民間の英語教室にその責任をなすりつけてはいけない。6年も英語を習って日常会話すら話せないのは、日常会話の訓練をしていないのだから当たり前。せっかく時間をかけてくるのだから、一日で次の国なんていわないで、ここの英語環境を十分に生かして、ツアーガイドに実際のイギリス英語を教わりながらの8日間という趣向はどうだろう。

ストーンヘンジ
ローマ時代よりさらに昔、一般には先住民の時代といわれる。そのころ、神殿として建てられた。ここで何を祈ったのかはわからない。でも石は4000年以上ここにあった。


歩く
街を歩いていると、なにか違う。東京の半分もないような遅さで、のんびりと行く。時にウィンドウショッピングをしながら、目的なく歩く。急ぎ足は似合わない。歩くはやさはアンダンテ。犬も、のどかに歩いている。日曜日、公園でジャズの演奏会。オールドファッションなビッグバンドジャズ。空に音が消えて行く。寝そべったり、座ったり、思い思いの格好でくつろぐ人たち。テントの下の年老いた楽師たち。ベンチに腰掛けて話すともなく話す15年ぶりの友達、時間を越えて昔に戻っている。濃い緑の中で、見上げればターナーの描いた空。