| トレド トレドに着いてきれいな装飾を施してある駅から国道に出て歩くと、ビサグラ門まで5分ほど切り通しの岩の丘が左手に続く、バスで丘の上に着くより鉄道駅のほうが風情があるような気がして、いつもはこの道を選ぶ。門から見上げたトレドの景観はいかにも要塞都市といった感じでごつごつとした岩の上に積み重なっている建物たちの、重くまっすぐに伸び上がるありさまがおもしろい。西ゴート時代、今から1500年前はここが首都だった。周囲の川には3つの橋がかかり、これのどれかを渡らなければ中に入れなくなっていて、まわりは城壁と530メートルの絶壁でがっちり囲み、門を閉めれば誰一人はいることはできない難攻不落の要塞になっている。何に向かってこのような防御を行っていたのかはわからないが、ここを攻め落とすまでスペインを征服したとは言えなかったのはたしかのようだ。 城として最後に戦いで使われたのは、1938年。フランコ軍と共和国軍の戦い。このアルカーサル(イスラムのお城)、今は軍の施設になって入れなくなっているが、24年前フランコが死んだ翌年くらいまでは、戦いの象徴として一般に公開されていた。中は薄ら寒くなるような暗がりが多く、展示といっても当時の戦いの記録を記した紙が、日本語を含めて各国語に翻訳されて机の上に置いてある程度で、何というほどのものはなく、病室に使われていたような部屋の、鼻にこびりつくようなにおいがいやだった、あれは血のにおいだったような気がする。そのあたりのドアから、今にも兵隊が銃を持って出てきそうで、探索を早々に切り上げて外に出た。その後ここも改良されたようだが、二度と入りたくはない。 3000年前から続く奪い合いの歴史は、僕には理解しがたい。戦国時代の日本についても同じことで、周りは広い何もない土地なのに、その中の一点を奪い合うことに何の意味があるのかと思ってしまう。でも時の権力者達は、トレドを征服しないと、全土を征服したことにならないと、必死でここを攻めた。庶民としては、戦争は無益で害しかない、早く終わってくれと祈るばかりだったろう。もし、3000年続くパン屋があるとすれば、僕には権力の歴史よりそのパン屋の歴史のほうが興味深い。靴屋も、洋服屋も、上に立つものがどう変わろうと、誰が玉座に着こうと、変わらず必要なものを作り続けるのみだ。時には王のため、時には軍のため、そして隣の誰かのために。 夏、僕の体内に流れる血液に混じる毒、嘘や、疑いや、嫉妬までも一瞬の熱で溶かしてしまうように、どっと照りつける太陽が、中天に輝く季節には、ぐるりと周りを取り囲むように流れるタホ川の岸に、アザミが枯れ果てた姿のまま、その大きな葉をひろげ厳しく立っている。とがった葉といい、茶色のつぼみといい、ごつごつとした岸辺の岩肌に殺風景な装飾品として 存在を誇示している。誰もが、暑い日差しの中で枯れ果てたものだと思うはずだが、しかし、生きている。このような枯れ果てた姿でも生きている。また春が巡る頃、周りの黄色い花の咲き誇る中で、緑色の茎に戻ったアザミが、立派にあかむらさきの花をつける。それは、感動すら覚えるほどの復活の姿だ。スペインの大地がどんなに厳しかろうと、水が少なくスプリンクラーの普遍的な常設と散布なくしては、畑が成り立たないような中央部にあっても、生命はこういう姿で目に飛び込んでくる。それはしたたかですらある。 トレドといえばギリシャの体の小さな画家、エルグレコがいる。彼の住んだ家にあるベッドのそのあまりの小ささは驚き。彼の描いた青と赤のベルベットの世界は、最初に僕の心をとらえた絵として、自分史の中ではとくべつな地位を占めている。郷里福山から電車で40分あまりの所が倉敷の町。高校生だった自分はここの大原美術館が気に入ってよく出かけたものだ。もちろんまだ絵など、本物を見るのはここがはじめてでで、特にこの頃は、地下のガンダーラの石仏頭や、隣の倉敷紡績跡にあった棟方志功が気に入っていた。その大原の入った正面だったと思うが、エルグレコが一枚あって、その禁欲的な姿に、当時求めていた普遍的な静けさを見た思いがして、いつも長い間絵の前にたたずんでいた。この記憶の原点にたどり着いたという思いで、トレドのエルグレコの家が忘れがたい所になったのだ。近くに“オルガス伯の埋葬”が展示されている教会があるが、倉敷のそれよりはるかに色彩に富む、いや倉敷のエルグレコが白を基調とした特殊なものだったのかもしれない。記憶と今目の前にあるものとの間で、せめぎ合いが起きる。 しかし、エルグレコの絵の中でもっとも印象深いのは、カタロニアのモンセラー修道院のそれだろう。グレコは赤と青のほかに、雲の間に射し込む天からの光を描いているが、ちょうどモンセラーにゆく途中で僕はこの光景を見た、絵を見るときに良く思うのが、あれは写実だったんだという事なのだが、ここでも、そう思い知らされた。 スペインの大地は広く地平線まで同じ光景が続く、時折街が姿を見せるが、まるで親友にでも会ったような気分になる。車の前方に雨雲がたれ込める地帯があるのに、さける事もできずそこに車は向かって突っ込んで行く、今走っているあたりは晴れ渡り、右手には大きな虹が架かっている。やがて突然の雨、そしてしばらく雨に打たれていると、突然何もなかったように又晴れる。この3D的な空間こそ、スペインだ。この日もそういった光景が眼前に広がる中で雲が様々な形と色を見せていた、そして雲の隙間から光が差し、筋をひいて思い思いの方向に射し込んでいく。あの絵の光景が目の前に広がる、光の筋の美しいこと、いつまでながめていても飽きる事がない。この風景がある限り僕はスペインを愛し続けるだろう。モンセラー修道院に着いて、エルグレコに出会った時、あらためて感動につつまれたのは言うまでもない。 トレドにのグレコの部屋、書きかけの絵が数点、見ると背景は皆同じ。当時は工房を作って製作するのが普通だから、背景は弟子が描いたものだと思う。職業作家としてキャンバスに向かうグレコ、肖像画という分野がなかったら、このような工房も画家という職業も成り立ちはしない。注文主がいて、はじめて絵がかける、しかしそうしたなかでも芸術的だと人に言わせる絵が、作家の手から生み出されていった。それは誰にでもできることではない、工房の片隅で背景だけを描いて一生を終えた画家もいる。数百点描いても後に何の価値も認めてもらえなかった画家もいる。そのなかでゴヤといい、グレコといい、どうしてあんな時代にこれだけの絵が描けたかと不思議になる。 トレド細工というのがある、黒い地に金の線を打ち込んで作られる。トントントントン、朝から槌音が響く、製作中の風景を見せてくれる工房があるが、小さなアクセサリーが主だから工房も小さくていい。茶色のプラスチックのような物に黒い金属を貼り付けてから、金を打ち込んで行く。細かさとか、絵柄は日本の伝統工芸にはかなわないが、これはこれで安いのでいいおみやげになる。ドンキホーテの絵柄の少し大きいのを記念に買ったことがある。今のトレドは土産物屋で食べてる感じなのだが、観光だけで、これだけの人口がまかなえるのだろうか。だとすれば、観光客も良い事をしているわけだ。マドリッドに住んでいた頃は、人が来ればトレドに案内していたから、ぼくもいっぱしのトレド通になった、そうなると観光客が集まる所より、さらに奥に行った所の修道院なんかがお気に入りになったりして、いい気になっていた事もある。 一度トレドのマサパンがここのトラディッショナルなお菓子だと聞いて、探した事がある、大聖堂から500メートルほどの所にあるお菓子屋がマサパンの店だったが、小さなもので、蜂蜜と小麦粉が主な原料だという説明に期待を込めて食べたら、ただ甘いだけのまずいものだった。名物とかトラディッショナルというものには、この手のものが多いと再確認させられた。 大聖堂の裏に、アンティークの店があって、古い羊皮紙の本を売っている。一冊では高くて買い切れないので、おみやげ用に一枚ずつ売ってくれるので何枚か買った。昔まだ印刷技術がない頃、修道僧の主な仕事に写本作りがあった。一日中、書庫で本を写して過ごすこともまれではなかったという。こうして写された本が、近隣の修道院の書庫に入り、たとえば“ラスウエルガスの写本“とか”モンセラーの朱い本“としていまも大切に保管されている。いったいローマの総本山にはどれほどの古い記録があるのか、2000年間にたまった本をどうしているのか、一度聞いてみたい。もともと神に出会った人間などいるはずもないのを、2000年にわたって、神の存在を証明しようと書物を著し続けてきたのだから、その量たるやどのくらいあるか。神学というのは、不思議な学問だ。スペインでも大聖堂となるとバロック建築の物で400年たっているわけだから、ミサに使っている大きな部分は別として、聖器室、図書室、教皇のすまい、一般僧侶のすまいなんかに興味があって、ここで見学を申し込んだことがあるが、一般僧侶の居住している所は立ち入り禁止だと言われてしまった。そこを何とかできないかなあ。エステージャの教会なんかは、演奏に使った時、ミサの控え室が着替えの場所として提供されたので、そこまではわかってるんだけど。古い映画で見る限りは、小さな部屋とも呼べないようなところで修行の暮らしだったし、サンチャゴデコンポステーラの修道院に泊まった時も興味津々で、なかをみたが、入り口はバロック建築でも、宿舎は新しくてがっかりしたのが記憶にある。 西ゴート族の首都だったトレドが、歴史を越えて今も存在する。石の文化というのは永続的なものだ。“城やぶれて山河あり”とはならないで一度建てた物は残るのだ。人の記憶も永遠に受け継がれるものだったらば、もっと賢く生きられるだろうに。 |
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