| アランフェスの鳩 ギター協奏曲はたくさんつくられたが、どうしてもギターの音量が小さいせいで小編成のオーケストラか、そうでなければマイクが必要になるので、日本のクラシック音楽ファンには今ひとつうけが悪いけれど、今の時代マイクの性能も良くなったので、別に毛嫌いする必要もないのにと思う。 特にスペインではけっこう規模の大きいオーケストラと共演している映像が残っている、イエペス、ビテッティー、ペペ・ロメロなどだ。ギターが大好きな僕としては、もっとひんぱんに演奏してほしいと思うのだけれど、なかなかそうはいかなくて、相変わらず、ベートーベンやモーツァルトの陰にかすんだようになって、時々思い出したように演奏されている。そんななかで、それらの問題をものともせず、世界的に愛されつづけている曲がアランフェスの協奏曲だ。 僕も、40年前 EP盤でイエペスの演奏を聞いたのが最初だった。聞いた日から、僕の頭の中で2楽章が一日中鳴り響いて、まだちゃぶ台だった田舎の家の、野菜とみそ汁の朝ご飯の間にティララーときて、自転車で片道40分の学校に行く時ザーンザダザーとくる、一日中この調子でなりっぱなしでこまった。 何度も何度も繰り返しかけるレコードの溝はすり減り、とうとう2枚目を買う羽目になる。プレーヤーはコロンビア製の貧相なものだったし、福山の片田舎での話だから、新しく取り寄せられるのに1ヶ月かかった。レコードの音量を、近所に気遣う必要がなかったのは幸せだったが。ひどい音で聞いていたにもかかわらず、記憶の中ではえもいわれぬ美しい音で鳴り響いていた。 それから住居も何度か変わり、ステレオ装置も立派になり、音楽を生業とするようになった、その間に時代はCDへと移っていく。 アランフェスに行って、その庭を散歩することが多くなった頃、この曲は、ギタリストの課題曲のようなものなので、マドリッドで楽譜を手に入れ、この庭で練習して、音符の一つ一つを頭に入れ、しまいには弾けるようになった。 でも、オーケストラを雇えるようなお金はなく、弾けるだけで年月は過ぎていった。その間にポールモーリアが編曲して、自分のレコードに入れて、さらにこの曲の名声に拍車をかけた。一部のクラシック愛好家(この人たちはどうにかならないのかなあ)の間では不評だったが、今ではポピュラーと思っている人もいるくらいだし、おかげでロドリーゴはものすごく潤った。分類や形は何でもいいこの曲が世に広く知られることのほうが大事さ。 作曲者ホアキン・ロドリーゴは幼い頃から盲目の身で、バレンシアに育った。パリ留学中に結婚したピアニストである妻に、王宮の中や庭をくまなく案内させている、その光景はのちに再現LDになって発売されてる。王宮の壁をさわる手、ピアノを弾く手、闇の中からうまれるメロディー、そこにあるのは純粋な魂、次々にメロディーが生まれ、彼の為に作られた点字の楽譜を打つ機械をつかって記録を残していく様子は、妖精とも鬼ともつかない何かにとりつかれたような感じすらする。そして最晩年に撮られた映像は、生きている間に認められた音楽家の、幸せな姿をとらえている。 1940年、スペイン内乱が終わって、やっとのことでマドリッドに帰り着いたロドリーゴについて、ビクトリア夫人が書いている。“私たちが、スペインに持ち帰った財産は、着古した着物と幾冊かの書類が入った2つの鞄だけでした。しかし、その一つには「アランフェスの協奏曲」の草稿が入っていたのでした。”パリ留学中に内乱が始まり、奨学金を打ち切られたロドリーゴ夫妻は、フライブルグの盲学院に身を寄せ、そこの小さなオーケストラを使って一年半の間活動を続け、その後 パリに戻り友人の所に身を寄せる。スペインにはかえれず流浪の生活を強いられたが、その間も創作活動は続いていた。 彼はこの庭を散歩して、最後の楽想を練り、内乱で疲れ切ったスペイン人の心に生きる希望を与えたこの協奏曲を完成させた。彼の中で自然と音楽が結ばれ、不屈の情熱と希望が息づいていたんだと思う。頭の中で、旋律をたどりながら、僕は庭を歩き続けた、青いタホ川の水と、時の流れを忘れてしまったような風景の中にじっと耳を澄ますロドリーゴの姿が、見えたような気がした。 今、アランフェスのはずれある墓地に、抽象的なオブジェに守られて、永遠の眠りについているロドリーゴ。尊敬を一身に集めて、変わることのない旋律とともに眠り続ける。 秋、枯れ葉が、つかの間に足を埋めるほどつもる頃、この王宮の庭を訪れるとき、その大木の空を隠すほどに枝をはったさまと、見事に整備された庭のたたずまいに静かな感動を覚える。何百年育ったのか、巨大な木々がそれぞれ空に自由に描く抽象画はどんなオブジェよりゆたかで、枝の間に自由に自分の精神を遊ばせることができる。秋には落葉樹のはかなさで、ちらりはらりと落ちてくる葉が森全体を埋め尽くし、枯れ葉のにおいが立ちこめる。庭の宮殿として、スペインの王家が夏を過ごすために作ったものが、夏が過ぎて秋になってもまだ深々と美しい。 入り口は3カ所ほどあるが、王宮とは少し離れているので、観光客は王宮裏の島の庭園までで帰ってしまう事が多い、僕が思うには、ここの魅力はむしろ王宮より庭園だろう、この時代の王宮は贅を尽くしていて、金はかかっているが装飾過多で、元来シンプルなものが好きな僕には、少々重い、王宮を外から見た景観の方が好きだ。バロック建築よりロマネスクの方が好きな体質で、壁でも屋根でも、その石の隙間や、無機質な石の連なりの間に自分の想像力を働かせて、当時の有様を想像するのが好きなのだ。だから、庭を見ないで帰るのはどうにも惜しい。奥に控える庭園の腰を据えた美しさこそ、別世界にさまよいだすチャンスをくれるのだから。 宮殿内には有名な陶器の間があって、カルロス4世やイザベラ2世の住んだ頃の贅沢な生活がしのばれる。けれど、僕には“女王の音楽室”が魅力的に見える。金の装飾を施したピアノを中心に、美しくしゃれた雰囲気の部屋で、スペイン王家の音楽好きがわかるようだ。カルロス4世の治世の時はボッケリーニが宮廷音楽家としていた。フェルナンド4世のときには音楽史上ただ一人前古典の作曲家と呼ばれる、ドメニコ・スカルラッティーがいたし、ムルシアはフェリペ5世の后だったマリア・ルイサにギターを教えていた。この王宮の召使いの部屋のどこかに、アグアドもいて、ギターの作曲をしていたはずなのだが、具体的にどことわかっているわけではない。 スペイン王室はまたスペイン語のオペレッタ“サルスエラ”を産んだ。これは、すぐに大衆化して現代に至っている。トロバやチャピはサルスエラの作曲家としても有名だ。今でもマドリッドにサルスエラ劇場があるし、7月25日には第8回のフエンヒローラのお城で1898初演の“巨人とカベスート”が上演されたのを僕も見ている。ウィーンのフォルクスオーパーと同じようなもので、スペイン語のオペレッタだ。大衆的で、洒落た街っ子の恋物語とか、ある酒場での話とか、とらわれた男の身の上話とか、三幕程度の小さなオペレッタだ。陽性のスペイン人気質丸出しで、自由に発散されていくエネルギッシュな雰囲気と、彼らの言うカスティーソ(Castizo)日本の“粋”や“通”にあたる美意識の面が混じり合い、味のある舞台芸術に仕上がっている。 道のわきに、ポツン、ポツンとある枯れ葉の山が、掃いても掃いても次から次へと舞い落ちる枯れ葉への、庭師たちのささやかな抵抗をしめしている。さくさくと枯れ葉を踏んで道をたどると、第2楽章があたりをさまよい始める。木陰から、飛び交う鳥たちから、川の流れから、しずくの一滴から、浮遊するメロディーたち、どんなオーケストラにも出せない和音。道行く人は少なく、放射状に伸び、交差して又次に続く道の人工的な直線が、木々を縫って行く。散歩することがこんなに幸せだと、誰も教えてくれなかった。 僕はマドリッドに行くたびに、都会の喧噪が嫌で電車で小一時間で着いてしまうアランフェスに足を伸ばす事が多い。昔はマドリッドが探検の中心で、あっちの公園、こっちの本屋、と歩きまわったが、気の抜けない都会はもう疲れてしまった。自分にとって必要なものは、都会には埋もれてないんだと思うようになってから、電車に乗り乾燥した大地を行くことが多くなった。 このあたりは赤茶けた大地ばかり続いている、もうラマンチャは目と鼻の先、ドンキホーテがした旅を僕もしてみたいと思う。まだ、人が善人であり得た遠い時代、荒野を馬でさまよっていると、何も起きないはずの日常の中で、風車が怪物に変わり、場末の旅館の下働きが王家の姫に見える、いいではないか、そんな人物がいても。10人の盲人が象にさわったのと同じく、本当の世界が見える人なんかいやしない。僕を含めて自分の経験の中からしか、ものは見えない。 さらに視線を移して、車窓にバジェ・デ・ロス・カイドスの塔、フランコの墓が見える。その誰も行かない気まずさを押し隠すように、白くそびえて寂しそうだ。フランコの時代は良かったという人が、それは体制側でお金を手にしてた人だろう、ごく一部にはいるが、大部分はその裏で行われた虐殺を知っているから、墓に参る人はいない。彼の死んだ後ヘネラリシモ通りは姿を消し、スペインに平和が訪れた。夜突然尋問され連行されて、スパイ容疑で、生きた心地のしないまま朝を迎えることもなくなった。各地方も禁じられていた地方語を復活し、自分たちの文化を取り戻し、再構築しつつある。 しばらくして唐突に緑が目に入る。川に沿って生い茂る木々と、畑がみえたらアランフェスだ。ここには人間に必要な水がある、水があるから、作物が実り、豊かな近郊農業地帯を出現させる。 春、実りの季節、イチゴやアスパラガスが土産物として並ぶ、もともと農業に適した土地だけに、収穫の季節は活気づく。ただ僕にはイチゴは酸っぱすぎる。見るからによく熟れていて甘そうなので飛びつくのだけれど、日本のイチゴのように品種改良されていないらしく、もてあますほど酸っぱい。それに比べて、ナバーラのほど太くはないが、それはそれでここのアスパラガスはおいしい。町全体を包む緑の持つさわやかな香りが鼻をくすぐる。春の風物詩は、そっと味わって、納得するもの。舌が記憶するもの。 夏は庭の王宮の本領を発揮する季節、王族たちはマドリッドの王宮から、船遊びをしながらここまで来た、王家の船が置いてある水夫の館には、何人ものこぎ手を乗せた豪華な船が展示してある。王族はここに来て、日がな遊び暮らした。近くの王宮の下部の館には、アグアドも住んでいたと言うが、今となっては、どの部屋ともわかるものではない。暇暇に狩りをした島の庭園などもある、なぜ島かと言えば、中に放した狐が逃げられないように出口が一つしかなくしてあるので、まるで江戸時代の鷹狩りのような話ではある。この中で、必ずいるとわかっている狐を犬が追い、王が弓で射た。前もって狐を捕まえてくる家来たちこそ、ご苦労様である。なにしろ生きたままとらえなければ行けないのだから。それはともあれ、蛇行して大きく巡る河が、暑さを忘れさせる。400年の間木々は育ち続け、無言で庭を行く者達をながめてきた。これから何年生き続けることか。人間の寿命は100年足らず、くやしいが、現実で、それが短いのか長いのかわからないが、大切な命であろう。病気になって自殺を考えたとき、どんなに考えても、つきつめても、半身不随でも死ぬことはできなかった。死ねない以上生きるなら、楽しく生きなければ、寿命が尽きたそのときに、自分の生きた意味がわかるのかもしれない。 エステージャのホセルイス・ゴンサーレスの夏期講習会に出た後、最後にここに来てはよく仕上げの練習をしていた。環境に左右される達なのか、ここで演奏のヒントをつかむことが多かった。最初スペインに1年遊学したが、1年くらいでどうなるものでもなく、かといってもっと滞在するだけのお金もなかった。他の日本人に勧められるままに、観光ガイドや、日本食レストランに勤める気になれば、居残る道もあったろうが、気が進まず、あくまでもギター弾きとして生きるために日本に帰った。 もうスペインの土を踏むこともないだろうと、貧乏覚悟の帰国だった。帰るとき妻は、わずか100ペセタ(当時300円)で買った鍋まで持ち帰った。4つの小さな陶器の人形を最後に残ったなけなしのペセタで買った。今でも家に飾ってあるその人形のかわいらしさの上に、あの頃の悲壮な決心の思い出が重なって、時々胸にチクリと痛みが走る。が、良くしたもので、帰った早々、中野教育委員会の仕事をもらい、少しのギャラでも毎週レギュラーで弾くところが新宿センタービルにでき、1年もしないでハンガリーのバルトーク記念ギター音楽祭に出演がきまって、また外国に出るようになった。そうして、日本でギターで稼いだお金で、またスペインに来ることができるようになった。それまでに3年の歳月が必要だったが。 アランフェスの宿でその頃のことを思い出すと、それはそれでよい時代だったと、つくづく思う。その後、ホセルイスの夏期講習会に出るようになって、スペインを経巡るようになって、少しは余裕ができた頃、この庭に来ては、浮かんでは消える楽想を追い求める時のお気に入りは、島の庭園にある、小さな男の子の噴水の前だった。大理石のベンチにすわって、ホセルイスに言われたことを思い出しながら、いつまでも練習していた。けっして人を裏切らないギターが、たまらなく好きだった。 ある日、いつものようにベンチに腰掛けて「聖母と御子」を弾いていると、一羽の鳩が足もとに落ちてきた。見ると頭にけがをしている、そのまま動かない。僕は何故か弾く手を止めることができず、じっと鳩を見つめたまま弾き続けた。演奏が終わるころ、鳩は目を閉じ死んでいった。その鳩のなにか訴えかけるような眼の光がいつまでも忘れられない。それは白昼夢だったのだろうか、いな鳩は死んでそこにいる。僕はすぐに葬ることもせず、手を合わせてただただ冥福を祈るばかりだった。小さな魂がギターの音に送られて旅立っていった。変わらぬ木々のそよぎの中で。永遠のいとなみの中の小さな自分、不思議の世界。 |
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