| サンチャゴ・デ・コンポステーラ 朝起きてラジオのスイッチを入れた、なにやら口早にしゃべりまくるアナウンサーの声、ところどころ言葉のはじが聞き取れるといえば聞き取れるが、基本的には何を言っているのかさっぱりわからない。これが話に聞くガリシア語かとラジオを持って宿の親父のいるカウンターまで行く、「そうだ、これがガリシア語だ」とにやりと笑う。やおら読んでいる新聞を見せて、「ガリシア語はポルトガル語にもよく似ているので、この新聞もガジェゴだけでなくポルトガル人も読めるんだ。」と言う。ポルトガル語にしても知り合いの店に、女の子が出稼ぎに来ていて、“オブリガード”とか“トラバージョ”とか言っているのを聞いたことしかないというと「勉強しろおもしろいぞ」と笑う。勉強といわれると、僕は不良だったからあまり学校に行っていないので頭をかいてしまう。中学校時代はまじめに通っていたのだが。田舎の中学だったし時代が時代だから塾に行くやつもいなかったし、大して勉強しなくても成績はいつもトップクラスにいたのが、高校に入ったら成績が悪くなってしまって、受験校だから同じ程度の人間が集まっているので、今思えば当たり前なのだが、そのころはそれが気に入らないのだからしようがない、授業をさぼってばかりいた。今なら登校拒否と呼ぶところだが、僕の頃は不良と呼ばれていた。不良でもけんか三昧の強い不良ではなく、ギターに夢中の、スミレの花が好きなレコードばかり聴いている不良だった。町の高台に高校があったので、朝下のパン屋までは行くのだが、そのまま坂を登らずにパン屋にだらだらいると似たような連中が集まってくる。たいていはけんか好きで、意味もなく突っかかっていくような連中だった。誘われると一緒に行ったから、僕も武闘派だと思われていたが、本人の意識は全然違う、僕はけんかなんかきらいだった。受験戦争の競争社会にうまくはまりこめない方に属していただけだ。それが証拠に音楽が今の仕事だ。 朝ご飯でも食べようと階段で下のバルに降りた。菓子パンにコーヒーという朝食ともいえないようなものしかない、みそ汁にご飯とは言わないが、せめてサンドイッチくらい出るとありがたいのだが、コーヒーがうまいのだけが救いだ。スペインの人たちは本当にこの程度で満足しているのか、菓子パンにかぶりつきながら考える、生まれたときからこれで育てばどうと言うことはないのかもしれないとは思う、こっちは朝食はちゃんと食べなさいと言われて育ってきたからどうもしっくりこない。今日の予定をぼんやり考えるが、いくら考えたところで、町を詳しく知っているわけではないし、昨日着いてまず夕日に輝く大聖堂に感激したのだから、とりあえず大聖堂の前のオブラドイロ広場にむかってぶらぶらと歩くことにする。旅行中はいつもに似ず朝早くから部屋を出て行くようになる、住んでいる人にとっては見なれた町でも、僕には何かすばらしいところが待っているような期待感があるから。 サンチャゴ・デ・コンポステーラはもうすぐ祭りなので、町の往来は電飾電球がずらりと並び、メリーゴーランドやシードラを飲ませる屋台が並んで準備は着々と進んでいる。入り込んだ路地はにぎやかにバルが並んで、どの店も一様にカニ、エビ、タコ、鱈とシーフードが氷を敷き詰めたショウケースに並び、昼食に備えている。 右に行くと市場がある、どこに行っても僕は市場をのぞく、妻の癖だったのがいつの間にかうつってしまった。いちばんその町の表情がわかる場所だ。サンチャゴ・デ・コンポステーラの市場はソパ・デ・カルドにいれるほうれん草のような野菜を大量に売っていた、この地方の名物料理だ、みそ汁のようなものだ。ハム、チーズ、チョリソのたぐいはもちろん、最近は流通が良くなってバレンシアのオレンジなんかも並び、食生活は非常に豊かだ。魚は種類が多い、カニもある、特に貝はこの地方独特なものがそろう、なかでもペルセベスは驚きだった、海岸にフジツボと一緒によくある“牛の爪”というやつで、日本のよりは少し大きくなるが、これをゆでたものが好物だそうだ。バルで試してみたが、確かに食べれるなと言う感想しかない、うまいとは思わなかった、ホヤと同じで慣れるとうまいのかもしれない。 郵便局まで戻り、大学の図書館の前を通ると数人の学生らしい連中とすれ違った。今は夏休みなので学生は少ない、夏の過ごし方はいろいろだ、よくあるケースは海岸で一夏体を日に焼いてすごすと言うやつ、あと各種の講習会のはしごをするというのもある、もちろんアルバイトにがんばる学生も多い、家に帰るというのもいる。 やがて目的の大聖堂前の広場に着いた。昨日とはまるで違う雰囲気の明るい広場には、もう観光客がちらほらいる。正面の古びた白っぽい石積みは降り積もった年月の重みで肌が荒れ、隙間にところどころ草が生えている。3つの塔の真ん中にサンチャゴの像がある。荒っぽいスケッチで描かれたような輪郭が塔の先端まで続き、空にむかって立つ十字架がとぎれがちに見える。朝日が光の束になって背後からその全身を浮かび上がらせる。 鳩の群れがいっせいに飛び立つが羽音は聞こえない、回りながら飛んで同じところに帰ってくるようだ。広場を横切ってゆく修道僧の影が石畳に映り、ゆっくりと歩を進める黒衣の僧の横顔を太陽が照らす、心なしか愁いを帯びて見える、僧の禁欲的な生活がそうさせるのか、明るく晴れ晴れとした顔の僧はあまり見たことがない、まるで人類の罪を一身に背負っているようだ。どこからか聞こえる子供の叫び声が静寂を破り、やせた犬が目の前を走り抜け広場の階段を駆け下りていった。 大聖堂のは両方から上がって行けるようになった2つの階段で、聖ヤコブの棺が流れ着いたという伝説を元に建てられた。フランスからの巡礼の最終目的地だ。巡礼は9世紀に始まり、それからというもの連綿と今まで続いている。教会の中には着いたことに感激してすがった信者達によって、深くくぼんだ石の柱がある。確かに1センチぐらいくぼんでいる。1100年の間必死に全身全霊を込めて巡礼たちがすがり続けると石でさえくぼむものなのか。 病気をした後に行った時、僕もすがって祈った。けっこう敬虔な気持ちだったが何も起こらなかった。それはそうか、ローマ法王でさえパーキンソン病にかかっても治らないのだから、信者ですらない僕の身に何か起こるわけがない。しかし、自分でどうにもできない事が起こったとき思うことはみんな似通っているらしい、「なぜよりによって僕の身の上に起きたんだ」と、不謹慎とはわかっていても、もう後の祭りとわかっていてもつい考えてしまう。奇跡を起こしてもらう以外になおる方法がないから、神頼みをするのだと、この時わかった。普段偉そうに無神論者を気取っていても、病気をするとこうだから始末が悪い。そして何も起こらないと納得したとき、なにかが体の奥で崩れていって、それから吹っ切れたような気がした。誰にもどうにもできないのなら、あるがままで生きるしかないだろう、それからというもの、“あるがまま”が信条になった。 メインの教会の部分は、中央の祭壇の裏側に下に降りていく石段があって、サンチャゴの棺が安置してある。流れ着くには水に浮かばなければ行かないが、ちょっとこの棺では重いようにも思えるが、キリスト教の伝説にはこういうたぐいのものが多いからいいだろう。アビラなんかは、聖者の指を安置している、どうして指が一本切り取られたのか、そしてそれを大事に展示してみんな拝んでいる、狩猟民族の謎だろうか。 歴代の司教の身にまとった宝石をちりばめたガウンや、杖、帽子、教会の金の模型など、他の小さな教会より立派な品々がおさめられた部屋がいくつも続き、広い内部を巡るだけでも時間がかかる。 いくつめかの部屋で日本人の女性に出会った。バイクでヨーロッパを旅行中だとか、そういえばそれらしい格好で、縁があったら又あいましょうといって別れたが、珍しく普通に話せたのでちょっと感激する。日本人に出会うと、大使館の旅行中の注意のいきすぎで、怪しい日本人には気を付けましょうと聞かされているので、露骨にいやな顔をされたりすることが多くて、ちょっとくさっていたから。 昼の陽光につつまれる屋上から下界を眺めて、小さく見える人々の往来の中に、ツナ(伝統的な学生のバンド)の連中が自分たちのCD を売っていたりするのを見つける、売る方が慣れていなくて恥ずかしそうでおかしい、“これは売れそうだ”とか、“あ、そいつより後から来る夫婦の方がいいのに”、などとかってなことをいいながらしばらく眺めていた。いつのまにか12時近くなっていたので、コーヒーでも飲みに行くかと、大聖堂を出る。 大聖堂の横はパラドールになっていて、重厚な立派なホテルなので、中で休憩をかねてコーヒーを飲むことにする。中庭の隅にある椅子も年代を経ているような雰囲気があって、一杯のコーヒーがいつもより重みを持って感じられる。豊かな時間が過ぎてゆく、時計は見ない。しんと静まりかえった中で日の光が噴水を照らし、水がきらきらと光る。 やがて食事時となり、その辺のバルでイワシの焼いたのを3匹ほど食べる。ずいぶん沢山と思うかもしれないが、スペインでは一人前6匹は来るから、半分食べただけ。それとスープ(ソパ・デ・カルド)。 夕方、ホテルを出て、大聖堂の向かいの丘まで散歩することにする、 大きく谷になっている所には家が建ち並び、それを迂回するように道は続く。ベルビス公園の5人で一抱えできるかどうかというほどの大木にもたれて、大聖堂の夕日に輝く姿を静かにながめる。正面からの夕日を浴びて、くっきりと浮かび上がる大聖堂の姿、鳩が小さな影になって舞う荘厳な夕暮れの中、雲が流れる。空が朱に染まって、山際の木のシルエットが浮かび上がり、町が赤く熱を帯びたように輝く。すべてのものが一瞬その大きさを増し、まるで空中に浮いているように見える、悠々として屈託がない。圧倒的な存在感を示す大聖堂を前にして、ぐるりと周りを見渡す、心の底にわだかまっていた澱のようなものがすっと消えて、あかね色に染まる世界に言葉すら出ないほど、感動している。 9世紀からの歴史が重く横たわるサンチャゴ・デ・コンポステーラ、1100年以上前、人々はどんな服を着て、何を考え、何を食べていたのか。コロンブスのアメリカ大陸発見の600年前だから、コーヒー、トマト、ジャガイモ、とうもろこし、タバコ、胡椒、唐辛子、どれ一つない。これらをのぞいた後には、塩と砂糖以外調味料が浮かばない。狩猟はしただろう、羊もいたし、犬もいた。でも獲物は焼くか煮るかしかない、味付けはきっと塩味しかなかったに違いない。だしは塩漬けのハムか、ベーコン、食べるのは手づかみ、果物と木の実があったとしても、原始的な食生活だったとしか言いようがない。 この頃の楽器を復元して博物館に展示してあるが、弓で弾く素朴な楽器が3本、表の玄関のアーチのところで天使が弾いているやつだ。それでどんな音楽を弾いていたのか、なにしろ今のクラシック音楽が扱えるのは14世紀以後、このころの音楽は想像もつかないのだ。楽器の調律法すらわからない。ただ数多く残る民謡から想像し、創作することはできる、それは案外楽しい行為で、普段のクラシックの演奏より根元的かもしれない。天使にはなれないとしても、楽器を演奏する存在として昔によみがえれるような気がする。 9世紀頃からフランスからサンチャゴ・デ。コンポステーラに向かう道を、サンチャゴへの路El camino de Santiago,と呼び、胸にホタテ貝をぶら下げて、背丈以上ある長い杖を目印にして、巡礼団が行った。十字軍といい、レコンキスタといい、時の権力者はそれらを利用しようとしてたびたび布令を発したが、それ以上の情熱で民衆の巡礼は行われた。パリから、クリュニーから、アルルからピレネーを越え(歩いて!)パンプローナ、エステージャ、ブルゴスを通過して巡礼団は行った。年間50万人に及ぶ人々の旅、ありとあらゆる職業の人がいた。ちょうど江戸時代のおいせ参りと同じように、純粋に信仰心からの人と、物見遊山の人、スリ、かっぱらい、山賊、娼婦、何でもありの旅だったらしい。その現場に立ちたかった。壮大な大衆のエネルギーを、この身で感じることができただろうに。その当時のといっても100年200年ではない、1100年前から、街道の各所に立てられはじめた修道院や、病院も、何年も何年も大勢の人々を迎えては送り出して来たのだろうが、石は苔むし、不断の修復がなければロマネスクの頃の建物などは屋根から崩れてくるのにもかかわらず、この時代のロマネスク建築が、今も数多く残り使用されている、夏は暑さに身をさらし、冬は雪に埋もれて。 1000年前に病気で倒れる人は、今ほど衛生の知識がないので、消毒薬もないから、水で洗うのが傷口をきれいにする第一の方法で、そのほかといえば酒を吹きかけるしかなかった。薬草をつけたり、飲んだりする知識を持ち、本で調べられるよう書き残すことが修道僧の重要な役目でもあった。文盲の時代だったから、読み書きができる農民なんかいなかったので、正しい治療も受けないまま倒れ、破傷風や結核が命を落とす病気だった。 今でも巡礼は行われている、ホタテに十字架を書いた巡礼の印もそのまま受け継がれているし、杖を持つ人もいる。特に夏行くと大勢の巡礼に出くわす、冬はあまりに厳しくてほとんどが雪の中だし、山越えには夏が一番なので、1ヶ月の夏休みを利用している人が多いのだ。今の時代は巡礼するからと言って休みをくれるわけではないので、全部歩くといつまでかかるかわからないから、途中自転車やバスを利用しながらの旅が多い。ストイックに巡礼をしている人も中にはいるが、たいていは気楽だ。巡礼の宿舎もある、着くとはんこを押してくれて、泊めてご飯をくれる。もちろんカトリックの国のこと、四国のお遍路さんと違って、巡礼からお金を取ることはしない。路の途中にある当時架けられた橋は崩れている物も多いが、あたらしい道路ができ“サンチャゴ巡礼道”の看板が至る所に立っていて旅先の不安を救ってくれる。ピレネーからサンチャゴへ、星の野をひたすら歩く姿はひたむきで美しくさえある。 冬、クリスマスのミサは全スペインに放映され、荘厳な雰囲気がテレビから流れる、人間2人のどもある香炉が、8人の僧侶によって縄でつり下げられ、香のにおいを振りまく中、司教のミサが厳かに行われる。同時に全世界的な祈りを唱え、人類の幸せを祈る。しかしそれは、人間の技であって、そこに神が存在するかしないかは、信ずるものにまかされる。信ずるものは救われるだ。 それの建てられた気の遠くなるような昔、現場で働いていた石工が、そこに食事を運んだまかない婦が、修道僧と同じ視点で神を眺めることができたとは思えない。彼らにとってはまずそれによって食べられることが先だったろうし、一人の石工が一生を費やして教会建築の仕事をすることも珍しくなかったと思う。この地に生まれ、ただ石を刻む人、その男に食べ物を運び続ける女、そこに巡礼に来る人、どのような人間も一生の価値は同じ重さを持っている。 宗教に名を借りた犯罪、免罪符の発売、魔女狩り、異教徒の改宗への拷問、処刑、これらすべてを超えてなおも巡礼は続けられた、信仰とはそういうものだろう。そうしてここに建てられた大聖堂は歴史を越えて残って行く。歴代の教皇の着た法衣、杖、冠、肖像画が教会の富と権力をを無言で物語る。すさまじい富の集積、その陰で名もなき民衆が生まれ、生き、死んで行く。 人間はどんな生き方をしたとしても、幸せかと問われたとき、心の底から幸せだと言えればいいのではないか。少なくとも僕はそれを命題として生きようと思う。幸せだとは言い得るが、その気持ちはゆれる、本当にそうかと問われれば、違うかもしれないと思う、心の底からというのが難しい。そういい切るにはあまりに不幸の種をばらまいて生きてきた、蟻を踏まないで生きようとはしなかったし、自分の利益のために人を顧みなかったことも多い。けっして人に自慢できる生き方ではないし、人を気にして生きては来てない、基本的には罪人だと思うが、そういう風に生きてきてしまったものは取り返しがつかない。庶民として精一杯生きてきた、もちろん20代の頃より賢くなった、この知恵のままでもう一度20代からやり直せたら、もっとましな人生が送れたとは思うが、そんなことはできはしない。20代のことを思いかえすと苦い反省がいくつもいくつもわいてくる、あやまらねばならない人も数多い。 しかし視点を転じると、世の中には善と悪がつねにある。イラクの戦争の時、米大統領の命令一過、大量の兵器が湾岸にもちこまれた。日本の首相はもちろんこれを支持、日本の首相という立場なら選択肢はない。 マスコミも戦争の正義を述べ立てた、これは何なのか、人殺しではないのか戦争は。広島に、長崎に、靖国神社に参拝を放映したのではないのか、二度と過ちは繰り返さないと言ったのではなかったか。マスコミは報道の自由と言うが、少なくともその時のテレビは、一斉に同じ論調で同じような番組を流していたような気がする。しかしそれを責めることのできる人間はいない。 一生のうちで純粋無垢なのは赤ん坊の頃のごくわずかだ。物心着いた頃から競争社会の論理に染まって生きてきている。原始社会にはあり得ない貧富の差や、学歴のおかげで便利な世の中を手にしている。こんな時立場が言わせたという便利な逃げ言葉もある。神がいるとしたら、これも神の意志であるはずだ。だれも純粋には生きられない時代、だからこそ、幸せだといえることが唯一の救いなのかもしれない。 エステバンが日本にアメリカ軍はいつまでいたかと聞いた。スペインもアメリカの駐留軍が4年ほどいたからだろうが、日米安全保障条約のことなど話す語学力がないし、話す気もない。今でもあると言っても、僕の動詞の間違いだろうと何回も聞き直す。太平洋戦記もスペイン語に訳されて売られているから、知日派ではあるが、戦後60年以上たった今もまだ、アメリカの基地がある国と、盛んに外国に資金援助をしている日本が、頭の中で一致しないのだ。それは、僕でもそうだから仕方がない。人の生きるのは矛盾を含むものだ。そして、スペインにはまだ、アメリカの軍事基地がある、公然の秘密となってはいるがイラク戦争の時も補給基地となった。そのことをスペイン人であるのにエステバンは知らない。エスペランサはギタレリアの経営者なのに知っている。グラナドスも知っていた。しかし、知らないと言うことは時として幸せなことである方が多い。日本の航空自衛隊のスクランブルの回数や内容など庶民が知らない方が幸せな例の一つだろう。地球は経済だけで動いてはいない。 難民、飢餓、戦争すらもすんなり飲み込んで、それでも大聖堂は建つ。屋根に生えた草が哀しい。1000年、人の有り様を見続けてきたこの大聖堂が僕はたまらなく好きだ。宗教も人道主義も乗り越えて、すっくとそびえる姿に、深い安心感を抱く。人間も捨てた物ではないと思う、まだこれからも。 大聖堂の裏にある、修道院跡に生徒たちと泊まったとき、ベッドの頭にある十字架が妙に気にかかった。修道院の大きな入り口、中にある庭が歴史を感じさせる、噴水の彫刻の重々しさ、それに引き換え、部屋の質素なことも修道院ならではだった。朝ご飯も質より量、大きなパンとまずいコーヒー、でも食堂は彫刻にかこまれて入れ物としては立派。管理のアルバイトをしている大学生は、暇なときに本を読んでいる。アルバイトでツナを歌うのもいる、大聖堂横の小さな広場や道ばたで、夜になると盛んにショーをやっている。その歌声が街に響く、響いてこだまし、歌が終わった後、彼らの飲むワインと共に夜は更けてゆく。すぐ隣のバルではイワシをつまみに、僕たちが飲んでいる。おなじようにこのサンチャゴ中の飲み屋で今夜も誰かが飲んでいる。くりかえされる営み、大聖堂の周辺はいつまでも変わることがない。 始めてサンチャゴ・デ。コンポステーラに来たときは、ソパデカルドが味噌汁に近いと単純に喜んでいた自分が、年をとるごとに、見る所が変わり、感じる所が変わってくる、同じ石段をのぼり、同じ柱をなでているのに。 ここの名物は、やはり海産物だろう、ネコラス、セントーロスとよばれる蟹、イワシの塩焼き、エビ、貝、もうひとつ、タコ、ラ・コルーニャでは昔はこのタコをその場でゆでて食べさせてくれる店がたくさんあった、一匹丸湯でしてはさみで切って、パブリカ粉と岩塩をかけてくれるのだが、できたてはおいしい。真ダコではなく水ダコだが、充分名物になれるだけの味だった、なにしろスペイン全土で“プルポ・ガジェゴ(ガリシア人の蛸)”と呼んでバルの定番となっているくらいだから。 蟹はそれなりにうまいが、やはり日本のマツバガニや毛ガニにはかなわないと思う。試すときは最高のものと思うから、オ・セントロというフィニステレの港の漁師街にあるしゃれた店で、水槽で泳いでいる中で一番大きいネコラスを選んで食べてみた。サンチャゴ・デ。コンポステーラ市内で売っているのの倍はあっただろう、それに塩味の蟹みそをつけて食べた。うまいのはうまいが、今ひとつ味が薄かったような気がする。店のおじさんが張り切って「うまいだろう」といっていたが日本人は贅沢だから素直にうんとは言わない。 このフィニステレにスペインの西の端に位置する灯台がある、けっこう行く人も多い、灯台の向こう、もうこれ以上行けないという、はしっこのところの岩に十字架がたっていた。天気が良くて絵はがきのような写真が撮れた。 白ワインは“リベイロ”、普通よりアルコール度が高くて、土地のバルでは白い陶器でおちょこの倍くらいある器で出してくれる。強い味だが僕は好きだ、海産物にはよく合うし、どこか日本酒に近いところがある。 メルカードの脇の夫婦2人でやっているバルではじめてリベイロを飲んだ時、おちょこが出たのにはびっくりした。とんと置いたおちょこに瓶から注いでくれた。老夫婦の二人がいい感じで、立て続けに2杯飲んだが、値段が90円だったのでまた驚いた。旦那から「リベイロは強いから飲み過ぎないように注意しろよ」といわれた。「わかったよ、でもうまいね」というと、にっこり笑った顔が人なつっこくて幸せそうだった。 もう200キロも走ると、ポルトガルに出てしまう。国境近くのビゴの街は、知り合いの神父の出身地で一度は行ってみようと車を走らせたことがあるが、運転手の吉田さんにははじめての右側通行な上、不慣れな道で、どうしてもビゴの方に行くことができず、とうとうあきらめて、ラ・コルーニャに行き先変更をした。 この時はついてなくて、途中でも道に迷って畑地帯の最深部まで迷い込んでしまった。畑でトラクターを運転している人に道を尋ねたがわからない、しばらく人がいなくて30分くらい走ったとき、ようやく3人が道ばたにいるのを発見し道を尋ねたら、2人が反対の方向を指さしたのには笑ってしまった、結局頼れるものはなく、仕方なく向いている方に走っていって、民家が見える村まで来たところでそこの地名を訪ね、やっとの思いで広い国道まで出た。べつに最初から行きたいところはないので、良いドライブにはなったし、いなかのコーヒーも捨てたものではなかったのでよかったが、「ガリシアでもスペイン人気質は変わらないね」とみんなで後で大笑いしたものだ。 |
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