昔話

金持ちのいない庶民の中でもいっそう貧乏な部類にはいるのが、7階に僕の借りていた部屋のとなりに住むアルフォンソ一家だった。今の時代にまだテレビは白黒、電話はない、子供は22を頭に3人で長女は結婚して近くに住んでいる。大きな体のバダホス出身の男。髭を蓄え、はげ頭で、腹は突き出て、仕事の警備員の時はピストルを腰に精悍な面構えだが、家ではただ気のいい、人情味豊かな愛すべきおやじだった。
僕はアルフォンソに最初のスペイン語を習った。教科書は幼児の絵本。名詞を覚えるだけで文法は全然教えられなかった。それで、ある日本棚の文法書を出してきて読めと言う、読むのはローマ字と同じだから読める、意味がわからないだけだ。アルフォンソの奴はそれを聞いて「そうだ、そうだ。」とうなづくばかりで文法はとうとう習えなかった。遊びに来た在スペイン6年の杏里に、「こいつ馬鹿じゃないか、まだスペイン語が話せるようにならない」などと言う。自分はアルファベットのXYZの順番さえあやしいのによく言うわ。

それでも奥さんのアントニアと身振りでしめして何とか教わった動詞が「Toma!」トマと「Dame! 」ダメ 「やる」、「くれ」、の意味だが、それを覚えたら家の棚のオールドパーを毎日暮れと言うようになった。それまでクーバリブレ(キューバのラム酒のコーラ割り)を飲んでいたのに、僕も一緒に飲んでいたけど。巨体を揺すってアントニアと二人で現れると、一杯ずつおいしそうに飲んで帰る。ほかにどうするというわけではない、来ては飲む。飲むと帰る、日課にしていた。結局我が家のウイスキーの買い置きが完全になくなるまで、わずか2週間だった。

おやじが一番興味を示したのは平凡パンチ、それもヌードのグラビアのみ。着物を着てないのはないのかと大まじめで尋ねる。もちろんぼくに、日本のねじ曲がった性文化のことを述べるほどの語学力はない。あいまいにノーというだけだった。裸を隠すとか言うのなら、いっそ裸の掲載禁止のほうが潔いかもしれない、だすなら全部だろう、ローマのバチカンでさえ隠してはいないのに、日本ではなぜか隠す。ポルノ雑誌は街のキオスクでよく売っているが、スペインのはもちろん隠すことなどない、もろだ、しかも公平なことに、種類は少ないが女性用もある。こんなあっけらかんとした性文化の国民にはかなわない。映倫、雑誌の自主規制などで隠しまくるから、異常性犯罪が増えるような気がする。なにもポルノだけではない、日本のテレビも、週刊誌も、大衆を相手にしながら、そこから遊離している。風流とか、粋とかいうのとかけ離れたところで、すべてが動いては困る。軽薄短小という言葉がはやって、すべてがバラエティーに取って代わられてひさしい。それももう終わりになるだろう。ぼくに政治を語る資格はないが、田中角栄が偉く見えるほど、いまの政治家も小さくなったような気がする。最近スペインのキオスクに異変が起きている、棚の3列くらいコンピューター雑誌が占めるようになった。エルコルトイングレス(スペイン最大のデパート)もカジャオのガレリアスプレシアードスの(スペインにもう一つあったデパート)つぶれた跡にFNACという本とCDとオーディオとコンピューターの店を出して8年。最初笑いたくなるくらい貧相な展示だったのが、今では立派になって、マッキントッシュのコーナーまであるようになった。携帯電話はもう定着した、なにしろラマンチャの片田舎カサシマロのカシミロ一家でさえ4人全員が携帯電話を持っている。僕も買おうと思ったら銀行の預金通帳がないと買えないと断られた。どうしてもというなら友達のルイスにでも買わせればいいのだろうが、考えてみれば電話はホテルに付いている。留守の時まで電話につかまる生活はごめんだ。便利さは不自由と隣り合わせだ。

ある夜ふらりと隣に行くと、息子のアルフォンシートとドローレスの4人で食事中だった。一緒に食っていけと言うから、テーブルに座ったら、4人の皿から少しずつトルティージャを取り分けて僕にくれた。水とパンと、少し僕のために削られたジャガイモのトルティージャだけの夕食、つつましく、時は過ぎていった。

ここでは、貧乏が少しも恥ではなかった。金のあるなしが人の判断の基準にはならないと、理屈ではわかっていても、本当にそうして暮らしている人たちに出会うと感動してしまう。

このピソでいいところは、階下がマーケットになっていること。夕食の買い出しに行くと入り口の所にある肉屋が、ブタの耳をもって、「これはうまいよ」という、べつにそんな物がほしくて来たのではないのだが、仕方なく受け取って隣に行く。魚屋は、僕が久し振りに下手な包丁でもふるって刺身を作ろうと思って注文しているのに、「鰺か、じゃあトマト煮だな、」というと、買う方の意見なんぞは聞きもせず、さっさとはさみで3つに切って新聞紙に包んでくれる。そうすると隣の八百屋が、「煮るトマトならこっちの赤い方だ」といって、トマトをメディオキロ(500グラム!)包んでくれる。片言の僕は説明をあきらめて、豚の耳と鰺のトマト煮の夕食に変更することになる。ちなみに、スペイン料理の大半はトマト煮だ、日本が醤油煮なのと同じで、食生活の中に大きく根を張っていて、それを意識することもない。

それから、スペイン語を僕に教えたのは誰かと言う談義が始まる。隅っこにあるバルに、この親父どもが集まって(営業中に!)ぼくも引っ張って行かれる。こいつはカフェコンレチェ(ミルク入りコーヒー)だと誰かが怒鳴っている、僕がカフェコンレチェを飲むようになったのは、まだ他にコルタードやソロのあることを知らなかったせいなのだが、飲んでいるうちに好きになった。それから24年、今もコーヒーはミルクを入れるようになってしまっている。昔と違うのは、太るのを気にして砂糖を入れるのをやめたこと。

いづれにしても、コーヒーについては、少しうるさくなった。いちどなんかスペインのコーヒーをトランク一杯買って帰ったこともあった。淹れ方はエスプレッソ、ドリップのアメリカンはどうにもいただけない。カフェコンレチェというと、朝飲むことが多い。それに引き換え、小さな器の代表はカフェソロだろう、スペイン人は仕事の合間にちょっとバルに立ち寄って、無駄話をして時間を過ごしてゆく。ほんのつかの間で無駄口もきかないイタリア人とここが違う。コーヒーでなければ松ヤニの入った甘いリキュール、アニスを小さなコップで飲む手もあるが、いまのスペイン語の先生セニョリータ・エバによると、昔、カンポで働いていた頃は朝からベーコンやチーズを食べていたので、このアニスが飲まれることが多かったが、都会ではほとんどないそうだ。やはりチュロスかマドレーヌが標準だそうで、ビスケットですませることもあるという。ほかにもボージョと呼んでいろいろあまい菓子パンのような物がある、クロワッサンとはとても呼べないような、でかいパンも、本格的に好きな人はチュロスにはチョコレートを飲んでいる。ココアの濃い奴だが、甘くて死にそう。まあ朝飯はこの程度だ。どうあれコーヒーだけはこちらの物にはかなわない、うまい。

 1日5回食べる習慣を持っていた国民だとよくいわれる。もっとも、日本でおやつと呼ぶようなものに名前が付いているだけだが。いまでも植木職人なんか来てもらうと、10時のおやつ12時のお昼、3時のおやつといちいちやっている。それに名前が付いているだけだ。デサジュノ、アルムエルソ、昼食、メリエンダ、夕食、の順番だ。年をとるとメリエンダで終わりにする。ルイスの母親も一緒に夕食を食べたことはない。いつでも、母はメリエンダを食べたからもういらないんだと言っていた。

カフェソロではきついという人にはコルタードがある、ソロの上にミルクを注ぐのだ。これは、ウエイターが目の前で注いでくれる、自分の好みで量を調節してくれるのだ。原則的にはちょっと注ぐ程度が一般的。コーヒーはエスプレッソマシーンで淹れるとだいたい同じ味が出るものなので、味の秘密は実はミルク、おいしいミルクを使っている店のがうまい。マドリッドではソルの広場のホテルヨーロッパの3軒となりのファロールに通っている、べつにここしかうまくないのではない、ホテルヨーロッパに泊まるとこの店になるだけ。最近は、ホテルヨーロッパが隣のカフェを買収したので朝はここのバルにいることが多い。創業100年近く、ずっとこの場所で過ぎゆく時をじっと眺めてきた。安全性と、買い物の便利さにおいては、このホテルにかなうものはない。ソルの広場のマドローニョスのすぐそばにあるので、スリにあう暇もなくホテルにはいれる。一つ隣の通りがエルコルトイングレスなので買い物をしていて袋で両手が一杯になっても、すぐホテルに帰ってものを置いて又出ることができる。便利この上ない。そのせいで、米国や中南米なんかはこのホテルを旅行社で使うことも多く、7.8月の真夏の暑い時をのぞいて、いつも満員なのが悩みという、熱海の観光ホテルが聞いたらうらやましくてよだれの出そうな話を社長のパパさんがしている。親戚、家族で経営していて、もう3代目の時代に入ったので、顔と体型のよく似た親父と息子がホテルのあちこちにいる。社長が71才子供が2人、朝はカフェテリアの開店する7時(マドリッドでは異常に早い)にはもう起きていて奥さんと一緒に生のオレンジジュースを飲むのが日課だ。4軒隣のファロールはさすがに8時開店で、一歩譲る、年をとると朝が早くなるので、つい浮気するが、開店を待って朝行くと、エルグレコの描く絵にそっくりなウエイターがいて物静かに対応する。どちらにしても朝は生のオレンジジュースとカフェコンレチェ、セニョリータ・エヴァによれば、この順序は絶対変わることはないのだそうだ。それにしてもカウンターで飲んでいる間にも、客がひっきりなしに出入りする。忙しい朝が始まる。日本にはバルに当たるものはない、強いて言えば焼鳥屋と牛丼屋と今はやりのドトールなどの珈琲屋が一緒になった感じか。日本のカフェバーは名前だけ拝借した感がある。

マドリッドの友達のギター製作家ルイス・アロステギ・グラナドスは、一般にイメージするスペイン人の範疇に入りづらいまじめなタイプだ。ちょっと地味だが、おしゃれである。ユーモアもたっぷりある。絵もうまい家に何枚も絵がかけてあるが、画家にでもなれそうなほどだ。彼も店のはす向かいに一軒毎日通うバルがある。もちろん従業員全員と顔見知りだ。彼を訪ねていくと必ず「コーヒーはどうだ」と聞かれる。自分のところで出すようなことは絶対にない。「ああ、もらうよ」というと、バルに出かけていくのだ。当然グラナドスのおごりだ、彼の店に通うようになって25年がすぎた。すなわち彼の店の4軒隣にあるバルにも25年通ったことになる。
彼は、今はもう引退して、故郷のグラナダに住んでいる。なにしろ、はじめて店に行った頃は小学生だった息子が、今では農学者になっている。兵役を終え、結婚してパロマという奥さんをもらったのがもう8年前だ。彼のギター店はもうない。だから、昔話になってしまうが、僕にとっては楽しい思い出だった。店はひなびた小さな広場の一隅で、地下鉄の出口の所にあった。向かいが薬局で、広場は庶民の生活の場だった。ベンチにはよく年寄りが杖を休めて座っていたものだ。いつの頃からかそのベンチに、ドラッグ売りが常駐するようになった。まだ子供のような連中だった。おかげで、警官もしょっちゅう見回るようになり、彼の店からいつでもその様子が丸見えだった。さらに7年前右隣に、おかまバーが開店し、そのベンチの一つにおかまも座るようになった。そのおかまたちも、スペイン人にかわりはないので、バルに現れるようになる。普通スペイン人たはバルでは立ち話がほとんどで、いすには座らないのだが、おかまはなぜか椅子に座る 。それで、たばこを吹かす。店はますますにぎやかになり、いろんな人間がそれぞれの好きなようにバルの生活を楽しむ。日本人にはここまで庶民の生活に密着した場所はもてない。自分の所で、お茶を出すのが普通だ。最近ではコーヒーメイカーをおいている企業も多い、いづれにしてもアメリカ的だ。で、この広場プラサデ・チュエカは、マドリッドでも名高い悪い地帯になってしまった。タクシーに乗ってここに行ってくれと言うと、かならずあそこは行かない方がいいと運ちゃんに忠告されるようになった。ちょっとさみしい。

ルイスといっしょにグラナダ県人会の会合兼食事会に出席したことがある。フエンカラール通りの隣にグラナダの味の高級店がある。店主は愛想良く席に案内してくれたが、なんと言っても場違いかもしれない。ただ食事をするのではない。会長らしき人物の長い演説の後、よぼよぼの年寄りがひときわ大きな声で詩を朗読する、スペインの詩の朗読は絶叫型が多いと聞いていたが、まさにその通りだ。で表彰式と言っても盾のような物を渡すだけだが、何でなのかは、僕の語学力では見当も付かない。拍手が起きて料理が運ばれる。カマレロ(ウエイター)はタキシードだし、料理の上げ下げは恭しいし高級な料理店だけのことはあるが、出る料理は、ガスパーチョにフライの盛り合わせ、ハモン・デ・ハブゴに、ステーキ、甘くて食べられないデザートで、普段ルイスの家でごちそうになっている物とほとんど変わりはない。そういえば、ルイスの奥さんに料理は上手かと聞いたら「シー」といったが、これだとまんざら嘘でもないかな。でもスペインの女性に「今日はなんてきれいでしょう」と言っても「私はいつもきれいなのに今頃気づいたの」と言われるし「料理は上手ですか」と聞いて「ノー」と答えた人なんかいない。ともあれ、会は無事午後1時におわり、僕たちは帰宅した。

昔はバルの床が砂糖の包み紙やら、たばこの吸い殻や、ごみでいっぱいだった。どんなに汚れても、それがよいバルの象徴だと掃除もしなかった。街はひまわりの種(ピパという)の食べかすが至るところにあり、当時町に出るときは、地下鉄に乗ると何となく服が汚れるので、なるべく汚い格好で出たものだが、いまはそれも語りぐさだ。そんな店は、もうあまりない。みな清潔で、よく掃除が行き届くようになった。マクドナルドもでき、デリバリーのピザ屋もできた。最近ではあのマックが結構繁盛している。何でだ、スペインはマックに犯されるようなところではないはずだ。これはフランスでもそうだった。・・・・・に行く途中休憩に立ち寄ったのがマック。でもどう変わろうと、バルと言えばスペイン人の生活にはかかすことのできない場所なのだ。

スペインは、同郷のよしみでのつきあいが多い、もちろん仕事の上でもだ。ルイスは同郷のマドリッドのコンセルバトリオの教師ホルヘ・アリサの生徒の楽器の修理を引き受けている。たまに遊びに来ているのに出くわすと、ルイスは「グラナダ」出身だが俺は「グラナー」(グラナダの方言)だと笑わせる。

県人会と言えば、バダホス県人会のつきあいでゴジョのバスでピクニックに行くことになった。ルイスはどちらかと言えば成功者で、車もクライスラーだし、一時は日本でも野中貿易と取引があった。一方ゴジョは普段はスクールバスの運転手だ。自前のバスが唯一の自慢、おんぼろを通り越して壊れる寸前のようなバスで、がたぴし走らせては毎日前の道を疾走していく。乗っている子供たちは大騒ぎ、アヒルの巣をかまどにつっこんだようなガーガ ーとうるさい連中だ。それに大人が加わるとさらに一段とうるさくなる。出発するときから到着まで一瞬も静かなときはない、あっちでもこっちでも「ミラミラ」(見ろ)という声が聞こえる。その方角を見ても、ただ家が立っているだけだったり、ブドウ畑だったり、結局全員ハイになっているだけ。その日総勢40人の中に加わる僕は取り残された気分だ。知った顔も知らない顔もいる。もちろんアルフォンソ一家もいる。けたたま しくバスは走って川のほとりに着く。売店なんかない、大きく蛇行したところの川っぷち、ただそれだけだ、水の豊かな流れの緩やかな所を選んでわらわらと降りてゆく。日本だったら、せめて売店とか、テキ屋の店とか、あるところだが、本当に何もない。

着くとすぐ枯れ枝を集めはじめる、なにしろスペインのことだから、枯れ枝はたくさんあるので、すぐ小さな山になる。燃やしておき火をつくり、パエジャ鍋をおく。これは、男の仕事だ、祭日は男の手料理で過ごすことで主婦は家事をさぼることができる。しかし火の周りではやし立てることは忘れない。「そら今だよ、米を入れなくちゃ、ああスープはどこだい、しっかりしなよ料理係だろ」アルフォンソのはげが上気して赤くなっている。素朴でおいしいパエジャが40人分できあがるまで、他の人間は川に順番に飛び込んで遊んでいる。その水の冷たさ、鋭利な刃物で切られるようだ。度胸試しの様相を呈してきて、なぜか僕の番が来たらしい、「ほらミチ飛び込め行ってみろ!」と声がかかる。黄色い声やら、だみ声やら、40人分とは言わないが、20人分はあろうかという声援を受けて、これだけ言われたら仕方がないと、思い切って水しぶきを上げる。本当に冷たい、入ったらすぐに出なければ死んでしまいそうだ。歓声・・・、「男」として認められたようだ。未開のインディアンじゃあるまいし、別にうれしくない。あわてて水からあがる、アントニアがキスの嵐を浴びせる、彼女の放漫すぎるおっぱいの間で息ができなくてもがく。たのむから娘のドローレスにしてくれないかなあ。

そうこうしているうちにパエジャの方ができあがる。皿に盛られたパエジャに挑戦、これがめっぽううまい。雑なスペイン人にしては、上出来。鳥だと思って食っていたのがウサギ(スペイン語ではコネホという)と判明、そういえば肉屋によくつるしてあったっけ。気持ち悪いと思っていたが、このように使うのか。でもうまい。ちょっと小骨の多いのが難点。あちらでは今日のビーノ(ワイン)の代金をを俺が支払うと2人が言いつのっている、いや言うというより、叫んでいる。どちらも知らない顔だが、背の低い方が声がでかい、こういう場合はやはり体より声らしく、15分続いた言い争いは背の低い方が勝ったようだ。

結局川のほとりでパエジャを食べて、それでおしまい。おみやげにまんじゅうなんて薬にしたくても売ってない、何もないのだから。ふたたびバスに乗り込んでけたたましく帰っていった。

ゴジョとは狩りにも行った、コネホ(ウサギ)狩りだ。アルフォンソ、ゴジョ、僕の3人に、ゴジョが手塩にかけた猟犬プライという変な顔ぶれ。早朝まだ暗い5時頃、期待のこもったアントニアと妻たちの見送りを受けて、例のバスで出発、一路小麦の刈り取りの終わった畑に向かう。途中パナデリアでパンを買うときも、アルフォンソは両手で押してみて、パリパリいうのがうれしそうで、「ミチ、見ろできたばかりだ。」という、朝の7時半に焼きたてでないパン屋はないと思うが、ま、よかろう。程なく朝日を受けて金色に輝く畑に着いた、見渡すばかりの小麦畑、狩りでなくても気持ちがいい。ずっと向こうには今を盛りのひまわり畑がある。

もうあっちの方では、銃声がしている。ゴジョもアルフォンソも2連の散弾銃をもって、弾は込めずに折ったままにして歩き始める。僕は暇、何もすることがない。ただ一匹プライが忙しく走り回っている。ウサギの穴は必ず入り口と出口があるので一方で吠えたてると、もう一つから飛び出してくるそうだが、いっこうにウサギらしいものが登場しない。あたりではポンポンと銃声はするし、獲物はないしで、黄金色に見えた畑も、暑くなってきて、休みたくなる。なにしろ8時から12時まで無駄に歩き回っている。途中やっと木が4本ほど生えているところに来たら、アルフォンソが「休もう」と言った。やれやれと腰を下ろす。ゴジョが袋から、ヴィノ(ワイン)と、さっき買ったパンと生のタマネギを取り出す、パンもタマネギもナイフでそぎ切りにして、ほいとくれた。ヴィノはラッパ飲みで回ってくる。タマネギは生食用の辛くない奴だと言うが、やっぱり辛い。おまけに水も飲まない。ぼくも20代だから耐えられたが、今はたぶん無理だろう。

そして昼食が終わったらごろりと横になって「昼寝しよう」という、さすが狩猟民族、その上戦争で鍛えられてるから、石ころがあろうと、ありがいようとお構いなしだ。でも僕はそんな経験はないので、ちょっとでも木陰の根本に行こうとするが、何しろ12時頃だから、そううまくはいかない。しかたなく、1時間ちょっと眠る二人をプライと見ていた。戦争の時フランコ側についていたのは、今警官をしていることでもわかる。だからといって軍から徴兵の司令書が来たのを断る勇気のあるものはいない。人を殺したことがあるのかと聞く勇気は僕にはない。

起きてから、ウサギ狩りは朝の家が勝負で、もう時間が過ぎてできないというので帰ることになった。せっかく来たんだからひまわりでも打つかと、僕に銃を握らせた。むろんはじめて、弾は使い方がわかるまで込めない、とにかく2m先のひまわりだから、大丈夫だろうと引き金を引いたが、目の前のひまわりにかすりもしなかった。獲物なしですごすごとうちに帰ったことは言うまでもない。