ホセルイス・ゴンサーレスに師事できたことは、僕の人生の中でひときわ幸運な出来事だったと思う。最初の出会いは合歓の里で行われたマスタークラスだった。三重の豊かな海のまえで、繰り広げられた彼の講義と演奏、慈愛に満ちた人柄と、ヴィルトゥオーソだけが許される演奏スタイル、その指から紡ぎ出されるギターの音は聞くものの心を捉えて、酔わせた。

ホセルイス・ゴンザレスの師アンドレス・セゴビアが唯一の道しるべだった自分には、そのタッチを伝える人に身近に接する生まれて初めての経験であり、ギターに改めて虜になるのに充分だった。スペインまで行ったのに、その存在に気づかなかった自分の不明と、やっと出会えた本物のすばらしさに、しばらくは呆然と日を送った。そのころはもう、プロとしての活動もしていたし、教室も上石神井に開いていて、又留学するにもお金もなかった。

 歌心にあふれた演奏スタイル、そしてその音のすばらしさは、真に音楽家としての魂を感じさせる。その人間性が、やさしく、暖かく、父親のように人を包んでくれた。カディスを弾く時、祈りをこめるように投げ出されるフォルティシモが、僕の心を深くとらえ、アラビア風奇想曲では、クライマックスにそっと出されるピアニッシモが、僕の心の傷さえもいやしてくれた。こんな音楽家は他にいない。

最初は合歓の郷で行われた講習会で出会った。それからというもの、回遊する魚のように、毎年講習会にエステージャを訪れる僕を、大事に迎えてくれた。レッスンの自由さと楽しさ、恒例の会場で行われるホセルイス先生の演奏会よりも、レッスンの時生徒のギターを取り上げて弾く、心のこもった音が好きだった。クリスマスに彼の家に行った時、ギターを持たずに行った僕に、自分のラミレスを貸してくれた。セゴビアの弾いていたいわくつきのギターだ、もしかしたらあの音の片鱗でも出せるかと期待を胸に弾いてみたが、やっぱり自分の音しか出てこない、音楽をやると言うことはほんとに、一生練習だとつくづく、先生の音楽との距離を思い知らされた。

バレンシア語はカタロニア語と同属であるというより、ほとんど同じ言語だと思うのだが、現地の人にとっては、差があるらしい。今は亡きホセルイス先生が奥さんと話すときは、いつもこの言葉を使っていた。本人は全く周りの人間にはわからないと思っていたらしいが、何となくそれとわかっていたものだ。

先生は墓の中は暗くじめじめしていていやだと、自分の灰を、住んでいた家の窓からよく見える、ふるさとの山にまかせた。早春の光の中に浮かぶ岩肌が、おだやかに先生の遺骨を迎え入れた。

僕はその年弔問のため、アリカンテからバスに揺られてアルコイめざして山の中に入って行った。栗やアベジャーナの植えられた畑が続く道をたどって、やがて眼前に開けたアルコイの山々は、先生の死など知らないように起伏をくりかえし、ふもとに植えられたアーモンドの木には、桜より少し白い、でも桜とそっくりな花が咲き、暖かく僕を迎えいれた。隅々まで照らす明るい陽光、そう、この山のような人だったとひとり納得した。

心臓病でマドリッドの救急病院でなくなったとき、その魂はすでに体を離れ、この山々の元へ帰っていたのだろうか。尊厳な死。1つの時代が終わった寂寥感。セゴビア亡き後、スペイン人らしいドゥエンデのあるギターを弾く人はもう先生しか残っていなかった。その演奏に何度酔わされたことか。愛情の深い生徒をかわいがる性格といい、見習おうにも、その音一つすらまねできなかったが、このように自分も行きようと思った。

演奏会の前に、生徒の演奏が気に入らなくて、つい強い言葉でたしなめるとき、いつも先生の優しさに及ばない自分を感じた。弾くだけで生徒を深いあこがれの中に導いた先生。冥福を祈らずにはいられなかった。僕が脳出血の病に倒れた時、来日した先生の演奏会を主催することになっていた、演奏会は僕抜きで行われ、先生と奥さんの流した涙の話が、まだ意識のはっきりしない僕の元に伝えられた。2年後僕の生徒を連れて、講習会で再会した時、もうギターを弾けなくなった僕の手を、じっとながめて、きっと良くなると何度もつぶやいていた先生。

その先生が心臓病で先に逝ってしまった。もうこの世にはいない。このアルコイの山々だけが残った、この光が残った。僕は不思議と落ち着いた気持ちでその場にいることができた。

じっと祈りを捧げる時、先生への祈りは又、自分がギターを弾けなくなったことへの哀惜でもあったか。ギターを弾くための人生が、完全に終わってしまったことを、アルコイの明るい空が、そして僕の動かない右腕が改めて告げていた。もう響くことのないギターの音が耳の奥で鳴り続けていた。