| フラメンコ 日本人にはフラメンコ好きが多い、町のカルチャースクールにはフラメンコ教室が入っているし、フラメンコスタジオを開いている人も多い。そういうところでは、サパテアードを踏み、指を鳴らし、歌い手の声に酔いしれて、熱くフラメンコを踊る人たちがいる。日本よりもスペインにあこがれ、フラメンコ衣装に身を包み、ワインもシェリー酒もスペインのでなければ飲まない、人呼んでスペイン気違いがいるところだ。彼らの中にはセビジャーナスを踊りにスペインまで来る人も大勢いる。セビージャの春祭りに。 そこまでいかなくても、僕もフラメンコ好きの一人だ、気違いとまでは行かないので知識の方もそんなに微にいり細をうがつ方ではないが、スペインに長く来ているのでそれなりに知っているし、見てきている。 ヒタノ(ジプシー)たちが得意満面で踊るとき、アレグリアスのリズムに乗って体を震わせる女たちの、足の先まで血が騒いでいるのがわかる。これはぬぐいようのない民族の血、血のあくことなき要求のすさまじさに顔がゆがむ、サパテアード(足拍子)がパルマ(手拍子)がその場を盛り上げてゆく。ドゥエンデと呼ばれる何かがその場を支配し、憑かれたように踊り狂う。ヒタノだからできる踊りといわれ続けてひさしい。 それは、良く論議されることだ。120年前のことで誰も生きてないはずの時代の古い歌い手でカフェ・カンタンテ(タブラオの前身)の頃の、生粋のヒタノ、妖気立ち上る歌い手マヌエル・トーレか、洗練された非ヒタノのスペイン人、チャコンか、という話である、もちろん伝説の2大歌手ではあるが、なぜその話が延々今まで続いているのか、これも不思議。 フラメンコが生まれるに当たっては、アンダルシアに残るアラブのメロディーと、8世紀にインドで放浪を開始し、15世紀頃スペインにたどりついたヒタノ一族が大きな役割を果たしたといわれる。本来、大道芸、占い、鍋の直し、どろぼう、スリを職業?とする彼らの放浪が当時のスペイン政府に認められるわけもなく、定住することを強制され、しかたなく落ち着いた先がセビージャのトリアーナ地区、ヘレスのサンティアーゴ地区、カディスのサンタマリア地区だったので、アンダルシアがフラメンコのふるさとになった。 その古いフラメンコにちかいものを聞きたければ、その血を引くペペ・デ・ラ・マトローナとかアントニオ・マイレーナの歌などの入ったCDが何巻か発売されているので興味のある人は聞いてみるといい。ぺぺもセビージャのトリアーナに生まれたが、ヒタノではないし、ヒタノであるかないかでフラメンコかそうでないかを判断するのは、あまりに了見が狭いというものだろう。 ペペの歌は味わい深い、もちろん伴奏のギターも抑制のきいた雰囲気のある物だが、老境に達したカンタオールの喉を聞くと、僕は江戸時代の“さのさ”を歌ういきな老人を思い出す。アントニオは第一人者の名にふさわしい、はりのある喉の太い歌を聞かせ、そうかマラゲーニャはこう歌うのかと納得させるような大きさを持っている。その一方、パコ・デ・ルシアに代表される、現代フラメンコがある。見せる、聞かせるということでは、すさまじい物がある。 情熱は時にダンサーをして狂ったようなサパテアードを表出するが、ホアキン・コルテスの完璧な足のリズムは僕の理性を奪いつくして背中に熱い汗を流させる。相手すら必要としない孤独な踊り手は、ステージでテクニックの限りを尽くす、バックのバイオリンがわずかに下目の音程ででるのが気になって、ギター伴奏の時しかまともにはみれないが、その肉体は鍛え上げたダンサーだけが持つしなやかな美だ。フラメンコが劇場のステージに乗るようになって久しいが、この新しい波は何なのだろう。フラメンコがちがう衣を着て僕に迫る。 クリスティーナ・オジョスが10代で来日して、新宿のエル・フラメンコで踊っていた頃、まだ18才の僕が通いつめて、踊りに見ほれていた。今から思えば田舎出の若者が初めて東京に来て“エルフラメンコ”にはいって、フラメンコはなんてすばらしいものかと呆然とした、それが偶然クリスティーナの踊りだったなんて幸運としか言いようがない。 アントニオ・ガディスの舞踊団で見るクリスティーナは当代一の踊り手だと誰もが認める実力を身につけているが、若い頃のタブラオで見たクリスティーナの方が好きだといったら、フラメンコ関係者に怒られるだろうか。 その後、26才でスペインに来て、最初に行ったのが裸足のチュンガの店。その独特な裸足のサパテアードはドンと足をたたきつけるたびに、こっちの胸もどきっと打って、まさに身をけずるようなパフォーマンスで客を引きつけていた。踊りの中にあらたな心の呼び声を聞いたような気がした。ルンバフラメンカがあんな風に踊られるなんて、人間の持つ感情の激しさが空間を伝わって、全身の官能が揺さぶられた。 ちょうどそのころマドリッドのオペラ座(古い建物の頃)でルセロ・テナのカスタネットを聞く機会があった。その時カスタニュエラ(カスタネット)の旗手として君臨していた彼女のすべてを見た想いがした。それは、自在な感情の発露であり、強弱を見事に使い分けて「サラサーテ」を演奏していた。もちろんフラメンコかといわれればそうではないが、その後町のアカデミア(教室)で教えるカスタネットがより高度で細かいものになったのは明らかに彼女の影響だろう。僕も当時彼女のレコードを一枚買った。いまだに自室でたまに聞いている。 CDに変わってから久しいが、僕の所にはずっと前から集めたLPレコードが、自分にとっては貴重なライブラリーとしてあるので、相変わらずレコードも聞いている。最近これで最後だとばかりに趣味でガラードのプレーヤーに変えた。針はシュアー、アームはSME、この組み合わせ、20代の頃のあこがれだったが、当時は金もなく買えるものではなかった。50才の今になって中古品の店でこれらをそろえたが、驚いたことにイギリスの放送局用だった為、完璧なものがまだたくさん出回っていた。聞いたら単純な構造の為壊れる所がないのだそうだ。ついでにアンプもイギリス製の真空管のにして鳴らしている。若い頃の夢が今実現して満足だ。そしてパコのレコードを聞いている、CDよりレコードの方が生々しいような気がするから。 24年前、グラナダのタブラオ、ネプツルノではモダンバレーを取り入れて、下手な踊りで実験を繰り返していた。苦々しい思いでそれを眺めたのは僕だけではなかったと思う。フラメンコを見に来たのに、そのタブラオでモダンバレーもどきの踊りを見せられたのでは、たまったものではないと思ったから。モダンバレーではない“もどき”であることが、がまんできなかったのだ。反面ロス・ガジョスのように正統派の踊りを守っていた所も多いというのに。 いまでは、ヒタノでない踊り手が増え、劇場でやることが増え、20人で一斉にサパテアードを踏むのも当たり前のようになった。僕は相変わらず、一人か二人で踊るタブラオのフラメンコのファンなので、そういう会があっても、だんだんフラメンコを見に行かなくなっている自分が、なんとなく悲しい。 いつのまにか魂の呼び声が聞こえなくなってしまって、心を向ける先がなくなったのか。自分の感性が衰えたのだとは思いたくない。今年、コルドバ音楽祭に、若干17才のパコデルシアのような天才が現れたと聞くが、結局見にいってない。うまい演奏ではなくて、僕の魂をわしづかみにするような、本質的な演奏が聴きたいのだが、残念ながらそういうのに当たる回数が減った。17才の彼に期待はするのだが、どういうことになるか、まだ未知数の弾き手だ。 フラメンコではカンテ(歌)が神髄だと言う。カンテはこぶしを聞くものみたいで、意味がよくわからないことが多い。“アイ”一つで1フレーズ行ってしまうのは普通のことだし、それからおもむろに歌の本題にはいる。フラメンコ詩集を買ってみて、はじめてああそうかと思うことも多い。しかも歌詞は歌い手によって変えられることも多い。その上アンダルシアなまりが本筋だから、スペイン語がそんなによくわかるわけでもない僕には荷が重い。慣れればどうということもないですよと、よく言われるが、朝から晩までフラメンコに浸っているわけでもないので、いまだ慣れない。たとえば、ウイスキーはグイスキー、マドゥルガーダ(夜明け)はマルガ、カディスがカイ、グラナダがグラナ、でめったやたらに縮小辞ito,illoをつける。カジェホなんかもそうで、これで慣れられるわけがない。 フラメンコギターを習うのも、インドのシタールを習うのと一緒で、先生の弾くフレーズの本質をまねるのだから、自分流のフレーズで答えなければ行けない。全くのまねはだめ、先生の弾いたとおりに弾くと怒られる、あくまでも先生の真情をくみ取って、自分のフレーズを作り出さねばならない。だから当然楽譜なんかない。小さい頃から教えられたフレーズを自分で発展させて弾いているのだ。これは日本人には教えてもらっているとは思えないかもしれない。でもその流儀で次の世代が育つのがこの世界。今、フラメンコの教習所はどこも生徒で満員だ、アンダルシアだけではない、全国的な傾向だ。プロのフラメンコを踊るデンマーク人がいるのを見るのだから不思議な時代に生まれたのかもしれない。彼らが踊るとフラメンコのなまぐささには少々欠けるが、それはそれできれいなフラメンコになる。現代のフラメンコの進む新しい方向がそれだとすると、モダンバレーの洗練された完成度の踊りに負けてしまうかもしれないが。 日本人が踊るフラメンコもそうだ、どこまで行っても日本人が消えることはないわけで、それをふまえた踊りしか踊れないだろう。でもそれでいい。それはまた、新しい魅力になりうるものだし、僕が待ち望むものでもある。フラメンコを自分の中に取り込んで、それを素材に日本人の持つ繊細さで歌い踊られるステージが見たい。日本人は美しい、それは25年の間ヨーロッパに行ったり来たりしている間に感じた事だ。それは日本人とスペイン人の差というより、もっと本質的な、蒙古斑のある人種と、アーリア系、ヨーロッパ系、強いて言うならラテン系、との差までさかのぼるのかもしれない。8等身と7等身、栗色や金髪と黒髪、黒い瞳と青い瞳、金色の産毛、鼻やオッパイや足の大きさ、肌の白さまでことごとく違う。それらの全部をくらべて、欲目も含めて日本人は美しい。 最近ではさらに黒人系が入ってきて、ますますにぎやかになってきた。マサイ系の背の高いブラジル出身の黒人フラメンコダンサーを知っている、踊りのテクニックはまだまだだが、文句なしにカッコイイので将来が楽しみだ、フラメンコも別な意味でたのしみな時代になってきているのかもしれない。 かつて、リスボンのファドが同じ道を歩んだ、いや歩んでいると言うべきか。ファドの店“カーザ・ド・ファド”も、大きい所は市民がたのしみに通う店から観光客の行く店になり、本質的に違う環境になっていっている。 25年前僕がはじめて訪れた頃のリスボンは植民地をなくし、貧乏でカモメでさえふるえるような寒々しい街だった。首相を残して内閣が総辞職したりしていたのもこのころだ、いまとはずいぶん違う。でもそんな状態でもリスボンの人たちは勤勉で、思いやりが深く人間の悲しみに敏感だった。 ファドの店はそのころも活気に満ち、歌い手たちも意欲的だった。アルファマ地区のセベラ、バイロ・アルトのファイア、カフェ・ド・ルゾ、フォルカードには、夜ごとファディスタたちが出演してファド好きを楽しませていた。ファイアのステージは小さくせいぜい4人くらいしかのれなかったし、客はファドを聴く人しかいなかったから、飲んで騒ぐ客はすごい目でにらまれた。真夜中頃リスボンのファド好きたちは歌手と一緒に歌い出す。店中が歌声に包まれて夜明けを待つ。そんなひとときが何よりのなぐさめだった。心が開いてファドの持つ悲しみの世界に埋没していった。 歌手の頂点はアマリア・ロドリゲスだった。世界に出て、ファドを歌った大歌手だ、大人の深い人生の末に、しみじみと聞くような歌を歌った。伴奏のギターラ(ポルトガルギター)の余韻の美しさも澄み切った音で彼女を支えていた。 フォルカードが一番に様変わりし豪華になり、ステージは大きく、民族舞踊が入り、高い料金に変わり、次々とそれに習う店が出て昔ながらの店の方がめずらしくなった。劇場で歌うファディスタが増え、新しいファドが生まれてきつつあった、そこにアマリア・ロドリゲスの死だ、リスボンの歌い手たちは大きな痛手を被ったにちがいない。マードレ・デウスやカティア・グレイロ、アントニオ・シャイーニョなど新しい世代が育っているから、これから先が楽しみだが、どうかその中でポルトガル人の持つ魂や精神までも受けついでいってほしい。世界でもめずらしい歌たちだから。 |
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