| バスク・ナバーラ この地方への入り口はビルバオからのことが多い。マドリッドから飛行機で一時間ほど。大きな都会で、港にはクレーンが何台も並び、なんとなく尾道を連想させる。その先には超モダンな文化センターがあり、コンサートや文化活動の中心として大きな役割を果たしている。街は古く様々な時代のモニュメントも残る、店には高いものがたくさん並んでいて、生活レベルの高さが伺える。バルはちょっと暗いところが多く、中にあるテレビではサッカー中継を映したりしている。サッカーチームはバスク出身者にこだわる為、レアルマドリーのようなスター選手はいなくて、でもバスクの人には圧倒的に支持者が多い。サンマメスというのが、サッカー場の名前だ、以前このそばのオスタル・サンマメスに泊まった事もある。ホテルは5つ星の良いホテルもあるし、公園も整備されていてここで暮らすのはけっこう快適なように思える。 日中、肌をしっとり濡らすような、雨とも霧とも着かぬような雨がしとしとと降る。「この辺では、こんな雨をチリミリというのよ。」とたまたま入った洋服屋でおそわった。チリミリの降るとき人々は傘をささない。濡れるというほどの雨ではないし、むしろ雨を楽しんでいるように見える。この雨の中で静かに暮らしていたら、時間がしっとり過ぎて行くから、人の生き方の何か大事な所にふれるような発見があるかもしれない。僕の求めている答えがあるかもしれない。 歴史をひもとけば、スペインとは呼ぶにはいくつもの異論がある地方で、フランス側の、ラブール、バス・ナバール、スール、とスペイン側のビスカヤ、ギベスコア、アラバ県を総称しての、バスク(エウスカディと土地の人は呼んでいる)とナバーラ地域だ。基本的にやさしい、おおらかな人々なのに、日本ではETAの爆破事件のあった時だけ取り上げるので、無差別テロの巣窟のように思っている人が多いが、あれはごく一部の過激派のいきすぎた行動で、おなじバスクの人々も迷惑に思っている人が多い。しかし中央政府の強引な統合制作には抵抗し、穏健な方法でバスクの分離独立を望む人は多いと言えるし、政府も歩み寄り今では地方自治までは確立している。 それでもビルバオのあたりは危険な地帯という認識が日本では一般的だが、けっしてそうではない。考えても見てほしいビルバオにも一般の人が約40万人住んで生活している。生活というのは、寝て起きて、働いて、食事して、街を歩いて、買い物をして、東京で暮らすのと何ら変わりはない毎日を送るという事だ、毎日ドカンドカンやっているはずがない。極東の日本はあまりに離れすぎていて、ビルバオがバスクだと知る人も少ない。島国の悲しさで、たまさか日本人がそこに行って、ニュースを伝えた所だけが、知られる。そしてすぐ忘れてしまう。だから、どうしても、世間知らずの国民になってしまう、今はイラク、北朝鮮だが、ではボスニア、ヘルチェゴビナはどうなったのか、インドはタイは、南アフリカは、ポーランドは、ペルーは、みんな一つの国の歴史を生きている。だからそのニュースが入った時だけ騒ぎ立てるマスコミにはうんざりしている。その後も継続して報道していかなければ、数百年、いや千年以上の歴史が横たわっている国が多いのだから理解が行き届かないだろうに。 たとえば、日本全国の殺人事件を集めて、1週間分まとめてスペインで報道したらどうなるか、日本というのは日常的に殺人をやっている国だと思われるだろう。それは普段の我々の生活には関係なくても同じ事だ、確かに事実なのだから。しかもニュースというのはあたりまえの事はおもしろくないから、特異なことの方に流れてしまう傾向が強い。 この間はスペインのテレビの職業紹介で、朝のJRで人を押し込む係が映っていた。確かにこれは普通のことだといわざるをえないが、都会の朝だけのことで、日本中がこんな状態ではないのに、日本中こんなもんだと思われた。 12歳の子が4歳の子を殺したニュースも、新聞の一ページを使って大きく報道されていた。異常な事件が、日本では日常茶飯事に起こっているような印象を持たれた。こういう事ばかり有名になって困ってしまう。これに相撲、歌舞伎、阿波踊りの報道が重なったら、日本はどうみられるか。かたやエレクトロニクスの分野で世界を相手に商売したり、小泉首相の姿がテレビで報道されても、これらほど強烈な印象は与えない。 同じように、ビルバオ出身のエバが「私たちもETAには手を焼いてるのよ、困った連中だわ」と嘆いていた。マスコミが節奏を持って、普段のオビエドやエステージャをきちんと報道した上で、爆破事件を取り上げれば、平和ないい所で突然事件が起きたということがわかるのに、入ってきたニュースだけ刹那的に流すから誤解される。今ナイルで川の水を畑に移している男が、日本の幼稚園の庭で泣いている子供を想像すらしないだろうが、同時に生きている同じ人間なのだ。 どちらにしても、ETAの問題は、根が深いが、国の力でなんとか取り締まってもらわなくては困るだろう。EUに加盟して金銭的にも、産業的にも潤ってきたのだから。こういう民族的な問題は難しいことも多いのはわかるが、急進的を通り越してしまったテロリストたちだけでもどうにかできないものかといつも思う。ETAの家に生まれた子はETAになるなどと言わないで、もう少し踏み込んでもらいたい。爆破事件の直後に犯人の顔写真がテレビで流れて、3日後に逮捕できるのなら、予防措置もできるのではないか。 北と南の違いとなるとたくさんあるが、まず気候が全く違う。南も、地中海沿いと内陸部は大きく違うが、南が晴れの天気予報がでているときに、北は雷のマークや雲、雨のマークが付いていることが多い。 アンダルシアで、知らないおばさんに道でオラ!というと、かならずオラ!と間髪入れず帰ってくる。“心を開いている人たち”とアンダルシアでは言う。それでは、バスクではどうか、ビルバオのホテルで、でかける時“アディオス・アスタルエゴ!”と声をかけるのが常だった、ところがいつも返事がない、沈黙だけが帰ってくる。僕は“北はこういう所が違うんだ”と一人納得していた。ある日声をかけてから、靴のひもを結び直していて、いつもよりゆっくり出て行った時、後ろの方で小さな声で、“アディオス!”と聞こえた。言わないのではなかった、奥ゆかしいだけ。 実際につきあうということになると、あたりまえだが、いろいろな人がいて、自分の枠にはまる人としか親しいつきあいは生まれない、たとえば僕はギタリストやギター製作者、録音技師なんかの友達が圧倒的に多い、家に泊まるまでのつきあいをしているのは、そういう人たちだ。 初対面の愛想良さの割にガードが堅いのがアンダルシア。3時間も一緒にいると“アミーゴ”と呼ぶようになるし、いつでもお前の為にやってやるから呼べというが、具体的に電話番号なり、住所なりを教えたりはしない。 知らない道をむちゃくちゃでも教えるのは、全スペイン的な傾向。聞かれたら答えなくては悪いと思うのだ、おかげで、さらにわからなくなる。だから、その土地の人で道を知っていそうな人をちゃんと見極めてから聞かないと行けない。僕ですら道を聞かれる事が多いのだから、しかも、初めての街で。 僕は時々ノーボーダーのことを考える、国境がだんだん意味をなさなくなってきているように見えるヨーロッパなんか、いっそのこと国をなくしたらどうなるのだろうと思うのだ。この前もその話をイギリスに住む友人、高橋君に言ったら、ボーダーが消えたら、きっと民族の問題が今より鮮明になって、より多くの地域に別れるかもしれないと行っていた。確かに、国でくくらなくなったら、バスクなんか、喜んで独立してしまうから、統一した地球政府をつくって、全人類が平和共存するというのは遠い道かもしれない。しかし、このアイデアが奇想天外に思えないほど今人種は混ざり合い、大都会ほど複雑な人種にわかれた社会を作っている。南米大陸の貧しさも、全地球的な目で富のある所からない所に平均的にならしていけば、もしかしたら良い結果は生まれないのか。麻薬犯罪マフィアも全世界的に広がりを持っているのだから、全世界的に取り締まらなければどうしようもないだろうし、アラブに戦争の手が伸びるのも結局はオイルがあるからで、あり得ないことだが、もし北朝鮮で巨大な油田が発見されたらどうなるか、という事を考えてもわかる、資源の独占は良い結果をうみはしない。地球的に資源を管理するべきなのだが、こんな事は僕が考えるような事ではない。政治家はこういう問題を解決するためにいるのだ。 音楽に関しては、フラメンコはアンダルシア地方だけのものだったが、最近はビルバオでもバルセローナでもフラメンコの教習所があって、結構好きな人が多い。本来バルセローナはサルダーナという民族舞踊をしっかり受け継いでいて、民族舞踊ショウなどで観光客用に踊るのではなくて、バロック地区の広場で、毎土曜日市民が集まっていくつもの輪を作って踊っている。参加は初めての外人でも自由なので、僕も踊ってみたことがある。 バスクはファンダンゴ、アリニュ・アリニュ、ティストゥというたて笛と小太鼓を使うソルツィーコなどがある。それに各地のホタがくわわる、たとえばナバーラのホタなど、これは僕には区別が付きにくいが、単に歌詞が違うだけのものもあるみたいで、でも、各地の人によれば、あくまで違うというホタが受け継がれている。 ガリシア、アストゥリアスでは、ケルト族が多いだけにガイタと呼ばれるバグパイプが一般的に使われる。ナバーラの祭りを撮ったビデオにはアイリッシュターンと酷似した踊りもある 日本でも新星堂の吉祥寺店なんかは、ちゃんとケルティッシュのところにバスク、ガリシアのコーナーがあるので、知る人は知っているのだが、むしろこういうレコード店の方が特殊だとは思う。音楽一つとっても多様なもので、さらに細かく追求するとそれだけで数冊の本になるほどだ。それは日本でも、たとえば青森と岩手にのこる民謡に関してだけでも本が数冊書けるのと同じだ。津軽三味線を愛する人がいれば、一方ディスコに興じるひと、カラオケに入りびたる人、クラシック愛好家、自作自演派、と色々いるのが人間社会だろう。それはどの国も同じ、普段はクラシックを聞いていても、祭りとなるとティストゥを一日吹いているエステージャの市役所の職員を僕も知ってる。 ビルバオからバスに乗りエステージャを目指すと、都市周辺は工場や倉庫のような建物が目立つが、しばらくすると畑の起伏が絨毯を敷いたように色を変えて繰り返され、延々と同じ風景の連続で、堂々巡りをしているような錯覚におそわれる。機械化の波が押し寄せ、畑にトラクターの作る干し草の丸い束が、ごろんと転がったのが妙に好きで、通りかかるたびに何枚も写真を撮った。広大な畑の中に忘れ物のようにいくつもいくつも転がっているのがうれしくて、ちょっと前までは手で積み上げていたと言う干し草ののどかな風景が、丘の向こうの現代的な風車の群れとおもしろいほどにあっている。バスクといっても港のある大都会、漁業地帯、このナバーラのような農業地帯と山岳地帯といろいろな顔を持つ。 フランス国境近くの山岳地帯は、緑が町を覆い尽くすほど濃く、山が連なるように並び、時に雷が鳴ることもある。このあたりは“カセリオ”とよばれる家畜小屋や納屋が一階で、住居、寝室が、2.3階にある大きな家に住むのが農業をやるひとの普通の姿だ。 ナバラで買ったビデオはフリオ・カロ・バロハ監修のもので、1970年頃の、奇祭ともいえるいろいろな祭りや普段の生活の様子をを“ナバラの四季”という題でまとめている。たとえば、なまはげのようなお面をかぶった怪人が、道行く人をボンボンの付いた棒でさわったり、たたいたりして幸運を願うのもあれば、羊のつもりなのだろう、腰に付けたベルを鳴らしながら、何十人もがあちらこちらから集まってくるのもある。その歩きっぷりが大まじめに歩いてくるだけにおかしい。踊りも一本の棒を中心に、その先端からのびるテープを持って踊る、東欧と同じようなものもある。エステージャの石畳を降りてくる踊りの集団をカメラに納めたものもある、祭りの時にはこんなことをやっているのだろうが、普段の町の様子からは想像もつかない。あと豚の皮でワインの入れ物を作る所が納めてある、この店は僕も知っている、普通の小さな水筒から、豚一等分もある大きな水筒まで作って、店の前にぶら下げている。木こりの木靴作りとか、農業の様子も納められているし、おもしろいのは“いかだのり”だ。山の木を港に運ぶのに筏が組まれ、こぎ出して行く。なにか佃島を思い出して、ひとり笑ってしまう。平和な暮らしがおくられているのがよくわかる。マタンサと呼ぶ、豚のハモンや、腸詰めを作る様子もおさめられ、彼らの生活に豚が欠かせない存在である事を示す。もちろん羊は中世からの主要産業だった、メリノ種の羊を国の外に持ち出そうとすると首を切られてしまったくらいだから。 木こりの競技、いや力くらべもある。いつかテレビの宣伝で使われたから、記憶している人も多いかもしれない。丸太を斧で切ってゆくやつだ、あの斧はよくきれるが、ひげを剃っているのを見たと言う奴までいるのは、信じがたい。もう一つ100キロ以上の丸い石を持ち上げるのとの2つがバスクの伝統行事で、祭りに行われる事が多い。けっこう参加者というか力自慢が多くて、盛大に行われる。 セマナサンタ(復活祭)は全スペイン的なものなので、特に地方色豊かとか珍しいものではないが、宗教行事は盛大におこなわれる。ブラスバンドの後に、とんがり帽子の目だけ出したペニテンテとよばれる集団によって教会のキリストの像とマリア像がかつがれて行く。キリスト受難の追体験と言うことで、十字架を背負ったり、鞭で背中を打ちながら行進してくる人たちもいる。人目のないところでやってもちょっとサディスティックだが、公衆の面前を行列して通過するのでは、あまりにものヒロイズムが感じられて、僕は言葉もない。狩猟民族はこういうことが平気なのだろう。宗教行事だけに行為そのものを正当化できているのだろうが、神がいたとしても、そのようなことを望みはしないだろう。もっとも神がやらしているのではない、人間が勝手にやっているのだ。日本の密教や、インドにも形はちがうが、基本的には類似した修行がある。 が、そんな事は必要ないと思う。 祭りの中でパンプローナの牛追いは世界的に有名だ。ヘミングウェイのおかげで、世界中から観光客が集まるようになって、ここのだけが有名になり一人歩きしている。そんなわけで彼の銅像が闘牛場の入り口に建っている、モダンで、荒削りで、ちょうどここの状況にふさわしい重い固まり。ほかの町にも牛追いの習慣はあるが、たいていはひなびたもので、ここほどの盛大さはない。 広い一帯なので、港から平野部、山岳地帯まで、地域で様々な顔がある。ビルバオ、サンセバスチアンは経済を支えてきた都市。古くはスペイン無敵艦隊の基盤を作り、12世紀頃から羊毛、蜂蜜、鉄の輸出港として栄えてきた。一方、パンプローナ、エステージャは、9世紀からサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の通り道として、大勢の信者達がここを中継地として通っていった。当時、江戸時代のお伊勢参りと同じで、あらゆる職業の人々が巡礼としてここを通った。中には泥棒や春を売る女までいて、純粋に巡礼する人々をねらった。本当にサンチャゴの銀の棺が海に浮かんで流れ着いたと信じていた人が何人いたかは永遠の謎。でもそんなことは問題でない、巡礼の名を借りて自分の住む所から出かけて行くことが、庶民の楽しみだったのではないだろうか。 古くから栄えていたのでロマネスクの教会も多い、僕はゴティックよりこのロマネスクが好きだ。小さくて窓も少ないので教会の中は薄暗いが、外から入ってくる光の筋が石の祭壇を照らして、厳かな気分になる。どうも、バロックの金ぴかは好きになれない。なんで教会がこんなに金持ちでなければ行けないのか、何十もの教会に入っていると、しまいに祭壇の写真を見せられても、よほど特徴がないと、どこの教会だかもわからなくなっている。時の権力の象徴としてのバロック教会建築には興味があるが、建物自体はどこも同じだ。こんな乱暴なことを言うと建築を専門にしている人には怒られるだろうが、僕の目にそう見えるということだ。 このあたりは、カタルーニャやガリシアと同じく、地名が道路脇の標識に2つ書いてある。スペイン名とバスク名だ。たとえばEstella/Lizarra, Bilbao/Bilboのように。右がバスク語だ。なかにはArrigorriagaなどという、舌をかみそうな名前がある。 古いしりあいのアナは、ビルバオのすぐそばの、バサウリの弁護士の娘だが、エステージャのホセルイスの講習会で何度もあった。ギターのほうはあまりうまくなかった彼女も、夜となると張り切って、カラオケ(スペインの流行歌なので、全くわからない)に誘われたり、玉突きに行ったり、何かと僕を誘ってくれた。ただ、夜が弱い僕は、つきあえば朝までに決まっていたから、眠くて早めに切り上げることが多かった。 講習会の後、食事に招かれてバサウリの家にたちよった時、長女はガルビネといって、ご主人はスーパーマーケットの経営者で、町の主な仕事はほとんどアナの一族がやっていて、姉はイパラギーレという土地の音楽学校の校長であることを自慢そうに話していた。「ラミレスのセンテナリオ(200万はするギター)を使ってるのよ」とうれしそうに言った。スペインはコネと親戚の社会なので、縁故採用が普通だから、何代も続くとだいたいこんなことになる、いわば地方の名士の娘たちだ。地元との結びつきが強いだけに、そこの出身者でない人はちょっと苦労する。次姉は男っぽい子で、太り気味で髪も短く、車の送り迎えとかに重宝に使われているようだったが、その髪をかき上げる仕草が僕は気にいっていた。 家は弁護士だけあってプール付きの豪勢な邸宅で、典型的な上流家庭だった。お母さんは品のいい人で、その豊かな生活がうかがえたが、メイドがいないのはちょっと不思議だった。お父さんが来て食事が始まったが、やはり土地や家の話をお父さんはする、まじめに話すと日本との物価の違いで下手をすると嘘つきと思われかねないので気を遣う。スペインの上流家庭の常識はだいたい8人くらいの家族で、まずゆったりテレビを見る居間が40畳くらいあって、夫婦部屋と客室は独立した風呂トイレットがあり、子供部屋と老人の部屋は各人独立してある。車庫と庭は広くて花が咲いているのが普通、これで5000万円ぐらいが相場だから、6LDKで一億円で庭はほとんどないというような話は笑い話にしかならない。東京の一億円の家が地方では2000万円も出せば建つといったら、いくらなんでもそれは桁の間違いじゃないか、ミチはスペイン語がもう少しだからと言う話に落ち着いてしまう。 食事は、前菜がししとうの唐揚げ、これがこの地方で食べるとめっぽううまい、マドリッドのなんかはだめだ。後は定番のピクルスとアンチョビーを爪楊枝に刺したやつ、僕はタマネギのピクルスが好きだ。 スープは骨付きのステーキと一緒に来る。おじさんのやっている牧場と肉屋のものなのだそうで、その柔らかさは松阪牛を食べているようで、かねがね日本人は贅沢な食生活を送っていて、松坂のような肉はどこにもないと言われているのを鵜呑みにしていた自分がが、少々悲しくなった。でもあれから、あの肉に匹敵するものにはぶつかっていないので、やはり特別だったのだと一人納得している。 「姉さんの旦那は靴のおろし問屋もやっているので、この前ホスルイスが来たときは6足も買っていった。どこそこの親戚は病院をやっていて、お互い共同で山の上の別荘を買ったから後で行こう。」など話しながら食べる、やがてサラダが出てきて食事は終わり。 コーヒータイムはギターを持ってきて僕の演奏会になる、いつものことだからおどろかない、ギタリストを招待したのだから当たり前だ。“ターレガ”や“郷愁のショーロ”などを弾く。ワインが入っていても酔っているから演奏はできないとは言えない。スペインでは酔っぱらいというのは、自制心のないやつとしか見なさない、ためしに飲み屋で「おまえ酔っているか」と聞いてみるがいい、みんな真顔で「ノー」というはずだ。まして食事に招待されて酔っぱらうことはあり得ない。酒の上の間違いは許されるということはないのだ、だいたいそんな発想はない。それでいて飲む機会は食事にも休憩にも何かと飲む、日本の比ではない。何かというとバルに集まって話をして飲んでいる。飲めない人はどうするかというと水でもコーラでもいいのである、いることが大切で自分の飲みたいものを飲んでいればいいのだ、中国では公式の招待の席で胃が疲れているのでジュースを頼んだら、その場の全員が僕にあわせてジュースになってしまってあわてたことがある、習慣の違いとはいえどうすればいいか迷うことも多いが、あるがままに振る舞うしかない。 ギターが終わったら、別荘に行こうという、車でほんの5?6分のところにあったのでびっくりする。こんなに近くても別荘というのだろうか、鉄の重い扉の向こうはシェパードが寝ていて、家のドアを開けると年季の入った家具が並んでいる、隣はなんと教会になっている、そして庭にプール。すでに親戚の子が3人くらい泳いでいて、もう一つ建っている家の方では玉突きをしている。教会には絵の具のはげ描けた13世紀頃の古びたマリア像と、キリストの木彫がある。いくつもある寝室はそれぞれちがった趣味のインテリアで統一され、居間には分厚い木製のテーブルがある。 小高い丘の上に立っているので、下の方を流れる川が見える。プールサイドでジュースを飲んでいると、2階から子供が声をかけてくる。地下のワイン倉庫を見たいかと言うから「ああ」というと、台所の脇の小さな階段から下りて案内してくれた。さっきの食事の時の赤ワインが大量に貯蔵してある、パパのお気に入りで毎年大量に買い付けるのだそうだ。奥の住みにロマネコンティーが埃をかぶっていた、金持ちはやはり違う。 それより泳ごうとアナが誘うが、水は冷たくて僕は持ちそうもないので断る。そろそろシェスタの時間らしく姉が小さくあくびしたので、僕たちもビルバオに帰ることにする。帰るというとアナが寂しそうにする、又来るからと、帰りの車の中で再会を約束させられて、ビルバオのホテルに戻った。 今はアナも今では結婚しているはずだ。幸せに暮らしていることを望む。結婚式の招待状は届いたのだけれど、なんといっても日本からバサウリは遠すぎるから、行けなかった。 スペインでは一族に弁護士がいないと繁栄はないと言われるくらい、大切な職業でステータスも高いので目指す学生も多い。法律が複雑を極めるので、手続きに弁護士は不可欠なのだ。アレハンドロも弁護士を目指している、その合間に夏休み中はホセルイスの講習会に来ている。このように夏休み中は講習会に出る学生が多い、逆にサンチャゴの寄宿舎のように、夏だけ学生のいなくなった後に旅行者を泊めるところもある。 彼はビルバオに住んでいて、おとなしい、人を傷つけることのないいい性格をしている。何年か前ビルバオに住んでいた日本人の会社員の息子にギターを教えていて、彼らが日本に帰るとき僕の教室を紹介してきたことがある。その兄弟は何年か僕の所に来ていた。 ビトリアにはヘスーがいる、これは音楽をやっていても食えない方に属する。とにかく貧乏だが、気にする様子もない。いつもサンダル履きで、理知的な瞳をめがねの奥に光らせている。もの静かな男だ。Jesu(イエス)の名がぴったりの男。昨年42才で年上の女性と結婚した。人の噂で伝え聞いたのだが、長い独身生活もやっとピリオドがうてて、幸せになることをいのる。彼は毎年エステージャの講習会への出席を欠かさないが、さすがに去年は休んだそうだ。それで、新妻をつれて遊びに来ていたとか。どんな人なんだろう。普段はコーラスの指導をやっているし、バンドも持っているが売れないと言っていた、今頃どうしているか。 スペインは音楽学校同士の横のつながりがないので、情報や資料が不足している。しかし不思議なことに、インターネットは発達しているから簡単に楽譜を取り寄せられるのに、やらない。僕の方が旅行中なのによっぽど楽譜の種類を数多く持っている。 それでコピーということになる。とらしてもらうより、とらせる方が多かった。その筆頭がヘスーだった。顔を見れば、「楽譜貸してコピーするから」といっては僕の楽譜入れから何曲か引っ張り出してコピー屋に行っていた。それとホセルイスのレッスンでカタロニア民謡やマジョルカなどはあまりに変更が多いので、楽譜に書き留めたのだが、それもコピーをとらせてくれと言われて、とらせてやった。 それから10年後、うちの生徒だった男が、ホセルイス亡き後、彼の愛弟子がやることになった講習会にでて、コピーをとってきた中に僕のものが結構混じっていた。ちゃんとmichiとサインを入れているにもかかわらず、すでにほかの日本人がそれを作ったことになっていて、10年という歳月が流れこういう形で伝承していくのだという事を知った。 ヘスーには20年前にビトリアであったマイルス・デイビスのコンサートにつきあってもらった。1日目がマイルス・デイビス、2日目がジョージ・ベンソン、3日目がハービー・ハンコックで、最後の日がアル・ディ・メオラというすごいメンバーのフェスティバルだった。エステージャからビトリアのバス停までは1時間半で到着、ヘスーにどこか適当なオスタルはないかといったら、バス停の目の前にあると指さす、爆笑しながら荷物を運びこんだ。サボイというオスタルだった。 まだ時間があるから俺の家に行こう、ついでに街を案内してやるとヘスーが言う。どのくらい歩くかと聞くと、すぐだと言う、スペイン人がこういうときはだいたい1時間以上歩くことになる。でもまあひまだし、覚悟を決めてついて行くことにする。ヘスーは歩く道すがらいろいろ話しかけてくる、しばらくはゆっくりわかるように話しているが、そのうち早口になる。知らない単語が多いので適当に相づちを打っていると、ふと話をやめて「今の話は、おまえはわかってない」という、厄介なやつだ。「じゃあわかるようにゆっくり話せ」というと、しばらくはゆっくり話しているのだが、又早口に戻る、面倒になって黙り込むと、ああっと気がついて又ゆっくり話し始める。 たいしたことはしゃべってない、「日本人は鮫を食べるのか」とか、「この町にはギタリストと呼べる人間は3人しかいない。2人はロックで俺も昔はロックをやっていたが、今はクラシックだけだ。楽譜もこの町には売っていないので苦労する。」など延々しゃべりながら、街の角を曲がる。「この町は住みやすくて、美しくて、その上ビルバオに比べて物価が安いから暮らしやすい。市の中心には古い地区がある、小さいが古い教会もある、それからここには金持ちが贅沢に建てた家が並ぶところもある行ってみよう」イギリス風の青々とした芝の煉瓦造りの邸宅があると思えば、真っ白に塗ったアンダルシア風の家、その隣は鉄の塀に囲まれて大きな犬が寝ている。20軒ばかり並んで建っていて、確かにすごい。 デパートのある通りを抜けて、街のはずれ近く、もうカンポや山があるところまで来た。団地の一角にヘスーの住むところがあった。家族に紹介されて、昼食になるヘスーは食べない、「腹が空いてない」というがそんなはずはない、ヘスーの食べる分を我々に回したのだ、スペイン人はよくそうする、家に何も知らせてない上に貧乏だから余分はないのだ、ありがたく頂戴することにする。ヘスーの妹に折り紙を教えたり、記念に写真を一枚撮ったりして、わいわいやる。写真といったらヘスーの母親が急に鏡の前に行って櫛をあてたりする。 散歩に出かけて、プレイガイドで今夜のチケットを買う。それから古い教会や祈念碑のある地区をぶらぶらして、2時間ほどのんびり歩き回ったら街を一周してしまった。疲れたしバルに入って一杯やることにする。店の親父が、液晶ミニテレビは日本で買うといくらだと言うから、だいたい3万だというと、隣の電気屋は高く売りつけたとおこり始める。輸入すれば税金はかかるし、日本まで買いに行くわけにも行かないじゃないかとなだめると、それもそうかとしきりにうなずく。 そろそろ会場に行こうかと、腰を上げた。20分くらい歩くと、巨大な建物が目に入る、プールやテニス、サッカー場も見えスポーツウェア姿の地元の人が出入りしている。いったい何人はいるのかと聞いたら、「よく走らないけど3万人だ」と言う。話半分に聞いても1万5千人ははいる。まだ会場1時間前なのに長い人の列、指定席がないからみんな良い席に座ろうと並んでいるのだ。一緒に行列にはいると、頭を短く刈り上げ、裸足にジョギングシューズのおじさんが、「前売りを買った人はあの扉の方に並ぶと早く入れるよ」と僕のチケットを見て教えてくれる。日本人はおろか東洋系は僕たちだけなので、よほど珍しいのか、ふと視線を感じて振り向くと、女の子がまじまじと見つめていたりする。 中にはいると、ウオーン、ザワザワと会場の空気が揺れている、これは確かに3万人はいるかもしれない。テレビ中継もあるらしくスタッフが忙しそうに働いている。延々と人が入り続ける中2階のテレビカメラのそばに座れた。 スペインのコンサートは普通、始まりが遅いが、マイルスのは特に遅く11:30から始まった。予告の時間から遅れること2時間、しかし帰る客は一人もいなかった。それまで、口笛を吹いたり早くしろなどと叫んでいた客が、とたんに態度が変わって拍手の嵐である。キーボードは金色の床までたれるようなガウン、ギターは極彩色のアフリカンスタイル、マイルスペインは銀色のジャケットと派手。「TUTU」のナンバーから演奏が始まる、終始うつむいて全身音にひたりながら、時に対話するように、時に独り言を言うように、音を出しているのにまるで沈黙している姿に見えるようなマイルスの演奏には感動させられた。お客を意識していないはずはないが、まるでお客がいないようにサキソフォーンと対話している、下降していくフレーズがサキソフォーンによってコピーされる。これがジャズだと何度も心の中で叫んだ。1曲終わるごとにものすごい拍手で「すばらしいぞ」とか「朝までやってくれ」とかかけ声がかかる、客ものりがいい。ステージの方はそんなことにかまわずどんどんやりまくる。パーカッションが足に鈴をつけて踊りながらトーキングドラムをたたいている、ベースはマーカスミラーだ。 最後のナンバーでアドリブを終えてまだ演奏が続いているのに、マイルスは引き上げてしまう。おや、どうなるんだろうと思っていたら、キーボードが最後の音をならしっぱなしにして楽屋にかえって行く、後にはキーボードの音だけがいつまでもステージに響いている。あっけにとられていた客が我に返って、拍手し始めると、又メンバーがステージに戻ってきてアンコール。もう隣の男は泣き出しそうだ。全員が立ち上がって拍手し始める。拍手がさらに高まる中マイルスがワンフレーズ吹いて、今度は本当に引き上げて、コンサートが終わったら2時半になっていた。 深夜なので、ホテルまで歩くしか方法がなく、町をそぞろ歩いて帰った時、町の反対側に住む彼が、わざわざ送ってくれた。その後、彼が家に着いたのはおそらく4時頃だろう。それで翌日は朝からビトリアを案内してくれた。ほとんど寝てないと思う。スペイン人のつきあい方は、夜中というより明け方4時、5時まで飲んでいることが多い、一晩中開いている店があるのだ。それで何をしているのかというと、無駄話か玉突きか、たいしたことはしていない。これが習慣なのだ。つきあいは朝まで、若い連中はディスコで朝までが普通。だから慣れてはいるのだろうが、いつ寝るのか心配になる。きっと僕たちが帰った後で、死んだように眠ったと思う。 エステージャは、恩師ホセルイス・ゴンサーレスが、夏期講習会を毎年開いていたところなのだが。サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道筋であるため、小さな都市なのに修道院が6つもある。巡礼の途中で倒れた人々が救済されていたのだ。途中倒れて修道院で助けられ、そのまま居着いた人も多数いたと聞く。その一つは、今では市が管理する老人ホームになっていて、その大きな会議用の部屋がギターの講習会場に使われたこともある。会議用と書いたが、広い大きな空間の部屋で、ギターの響きがすばらしかった。修道院は丘の上なので上り下りは車の助けが必要かもしれないが、年寄りたちは幸せそうに暮らしていた。日本との大きな違いは、部屋から出るときはちゃんと洋服に着替えておしゃれをしてでること。寝間着のまま一日過ごしたりしない。なんと言ってもカトリックの国だから、世話して働く人も宗教的にも精神修養ができているようで、平和な雰囲気があふれていた。年金では老後は暮らせないという話もよく耳にするが、ここを見ている限りは、そんな事もあるのかなと思ってしまう。 ホセルイスの生きていた頃は、市の中心を流れる河のほとりの、由緒あるカサ・フライ・ディエゴが会場になっていた。これも市の持ち物で、陶芸教室や、講演会など、市の文化の中心となるところだった。この周辺はもっとも古い建物があるところで、通りの端には今も巡礼をする人のための宿泊施設があるが、それは古ぼけた質素なところだ。巡礼帳というのだろうか、札所というのか、とにかくホタテ貝を目印に、巡礼が持っているノートに判を押すところがある。ここでハンコをもらうと、一晩の宿と食事がもらえる。もちろんただで。ここで日本人の巡礼夫婦に出会ったときは、こんな所で日本人に会うとはとびっくりされたが、こっちが驚く。キリスト者は日本にもいるが、まさか北スペインを巡礼する夫婦がいようとは。昔ロマネスク建築を訪ねる旅を依頼されたという、旅行社のひとに話を聞いた事があるが、その時エステージャが出てきて、バスが入れないような所を行った話を聞いて以来、エステージャの話に日本人が登場するのは久しぶりだった。 この一帯には鍛冶屋がある、その道具立ての何もかもが古ぼけていて、まだ蹄鉄を打っている。ろうそく立てや、書見台も作っている。ろうそくは長いひも状で、一見してもすぐにはそれとわからない。壁に垂れ下がるだけの存在、これしか明かりを得る方法がなかった時代があるのか。その時代と同じに作っているという。油と鑞の明かりに照らされた夜、暗くてほのぼのとして、そのすぐ裏の川のせせらぎを聞きながら眠りにつく。どんな夢が待っていたのか。1000年前に見た夢は今も空中をさまよっているのか。 鱒が泳ぎ、ほとりに生える木の葉が光る昼間の川。そこにかかるローマ時代の石の橋、急な勾配で歩いてわたるしか方法がない。昔はこんな勾配を馬でわたったのだろうか。橋の上から見渡す風景は、何世紀も前から同じだった、そしてそこに住む人は何代も入れ替わって行く。無限に続く人の歴史、刻まれた石が証人。川も又滔々とながれるのみ。 夕暮れ、川で一人釣りをしている老人にあった、バスクベレーをかぶり静かに竿を振る横顔が厳しい。釣れますかと声をかけると、「どこから来たんだ、日本からか、経済ばかり発展しても駄目だよ。」と思いがけぬ事を言われた。おそらく、年齢から言ってもフランコの時代を戦い抜いてきた人だと思う、世界に向けた眼が鋭い。それだけ言うと、又、竿を振るだけの老人に戻っていった。僕は不思議な感動を覚えた。どんな所にも確かな目で世界をながめている人がいる。自分も同じ視点で語る目を持ちたいものだ。川の流れは澄んでいて、昼間はそこに泳ぐ鱒の魚影が、群れになって静止しているのが、手に取るようにわかる。川の畔にたたずんで、日がな竿をふっていられることが、おそらく、この上ない幸せであろう老人の、額に刻まれた深いしわが、無言でこの町の歩んだ歴史を語っているような気がした。 カサ・フライ・ディエゴでは、最初のうちは練習室なんかもちゃんと3階にあったのだが、一部屋でみんなが顔を合わせて練習するのは、とても無理なので、結局、階段、工作室、なんだかわからない部屋、地下のトイレの前まで、全部に講習生が進出して、4階建ての建物が講習会の間は占領されたようになった。 レッスンは中庭でいつも行われた。ホセルイスが朝会場に来ると、まず冷えたビールを買いに行かせる。けっしてアル中ではない(と思う)。で、一服たばこをつけて、ビールを飲んでから、レッスンが始まる。習慣だから、それなしでは落ち着かないみたいだけど、たばこは一服つけたら置いたまま、ビールも生徒の変わり目に飲むか飲まないかで、ほとんど、生徒に話すか弾くかしている。ピアノでも歌でも公開のマスタークラスは気疲れするが、ここはそんな心配は無用、ホセルイス自身が、ギターを弾くものはみんな家族だとよく言っていた。愛情の深い人だったし、およそ決まり事を持たない人だった。講習を受ける順番も決まっていない、自分が練習してこれでいいと思ったら、中庭に降りていく、そして待っている生徒に最後は誰か聞く、その人の次が自分の番。自分の講習が終わってあとの人のを見ていたければその場に残るし、帰りたければ帰る。すべて本人の判断に任される。 彼は驚異的な記憶力の持ち主だった。パンペアーナを弾いたとき、「よく弾いてくれた、おかげでセゴビアの運指を30年ぶりに思い出した。といって、セゴビアがレッスンでなおしたところを全部教えてくれた。後で数えたら18カ所、短い曲だから重要なところはほとんど全部だった。30年弾かなくても、鏡のように覚えている、言われてもすぐ忘れる生徒も多いのに。一度聴いた曲は忘れないと自分で言っていた。僕はこの講習会に10回以上通った。通算12年、20代がいつの間にか30代になってしまった。それでも彼のように弾くことはできなかった。目標は遙か遠くにあった。音楽とはそういうものだ、これでいいと思うことがない。やっと上り詰めたと思ったら、新たな課題が待っている。いつまでも勉強が欠かせない。 彼の音楽はやさしく、時に情熱的で、時に悲しく、人を感動させる要素に満ちている。それは、彼の体に流れる血だ、歌だ。音楽の系譜は一族の中に突然現れることが多い。そして、現れたとき、その子は何も言われなくても、すでに自分の歩む方向を知っている。天才というのはそういうものだ。 彼の音はすばらしい、何の変哲もない曲が彼の手にかかると魔法のように美しく変わる。講習生がレッスンを受けていると、彼がギターをとりあげて弾きはじめる。こんな名曲あったかな、と思って楽譜をのぞくと、ただの練習曲だったことがたびたびある。本当の音楽家だからできる技。しばらく離れていると、又そばにいたくなる人だった。 僕たちの宿も部屋もいつも決まっていた。てっぺんのテラスのある部屋。ベランダに出ると草が生えた屋根、苔むしたといいたいところだが、この辺には苔はわずかしか、はえられない。ツバメが舞っていて、夕方ともなれば群れが大空を縦横に舞う。すぐ眼の下の広場に香りがいいロメロの木が緑の葉をそよがせている。平和な気分で午後を過ごすことができた。もちろん昼寝もできた。 ホセルイスはいつも食事の心配をしてくれた、講習の終わった後、必ず待っていて一緒に昼を食べようと言われた。だから名物料理も食べた。「ゴリン」と呼ぶブタの丸焼き、鱒料理、ステーキ。でも日本人はだいたい半分も食べられない、ステーキは500グラムが標準だから、その店の大Tボーンステーキなんかは、1キログラムはあったと思う。ホセルイスお気に入りのアサドール(焼き物専門の店)で、肉は注文を受けてから固まりから切り取られた。特に僕たちがいるときはサービスで肉のかたまりが大きく、フィレステーキでも5センチの厚さのが目の前に置かれた。食べきれないが、残すのも悪い、で悪戦苦闘して胃に収めた事もある。そんなわけで全部の食事はつきあいきれないので、自分の部屋で、野菜のサラダなんかで終わりにすることも多かった。そんな時は、ミチはちゃんと食べているのか、と心配してくれていた。だけど、全部ちゃんと食べたら5キロは増える。 スペイン人とは食べる量の基準が違うのだから。まだダイエットが庶民の間では噂にならなかった頃だ。最近はだいぶ事情が変わって、カマレロ(ボーイ)も注文が一皿でもそのまま引き下がるようになった。ヨーロッパの男たちは腹が異常に出っ張っているのに気がつき始めたのだろう。こちらに来ると僕は普通よりやせて見えるし、やせなければといっても、まわりにも「それでいい普通よりやせている」といわれる。それは錯覚だと言い聞かせて毎日過ごすことにしている。油断するとあの見事な太鼓腹になってしまう。 たまに10代の学生につきあうと、その辺のバルで、注文するのはボカディージョ、いろんな物をパンに挟むだけで、ものすごく安いのに、量はあって、味はまあまあ。やはりその量に負けてしまう。パンといってもピストーラという日本で言えばフランスパンのバゲットくらいの大きさのものだから、迫力満点、どちらにしても、楽しく話しながら食べるのが習慣なので、普段静かに食べている僕は困ってしまう。話に集中すると食べる暇がない。みんなは、その辺を心得ていて、うまいタイミングでがぶりとやる。変なところで文化の違いを感じる。 おもしろいのは「トゥリート」の習慣、背の低いコップにほんの2口ほどの生ビール。バルのはしごをするためにはもってこいのもの。この辺でしかないが、これはありがたかった。まず“トゥリート”を頼む、それからおもむろに店を見回して、気に入ればさらにパチャラン(ちょっと甘くて本当は食後酒)に進む、シードラ(サイダーの語源リンゴ酒)の時もある。そうして夜が過ぎて行く。飲めない人はどうするかというと水を頼む。水もビールも同じ値段だ、もちろん水道の水ではない、ちゃんと瓶にはいった名柄付きの水だ。 宿の広場から、隣の広場に行くと、街一番の大きな広場に出る。ここでは木曜に市が立つ、チーズや、木の実、オリーブ、ワイン、野菜に、洋服まで、安く売っていて、そこで買い物をするのも講習会に出た人の楽しみだった。 古い映画館もあり、(今ではバス停の脇に、モダンな映画館ができた。スペインは全国的に映画館ブームだ。)その脇の小さな坂道をあがると、楽器屋があった。おきまりのピアノや電子楽器を売っているコーナーと、管楽器のコーナー、ギターの他に、ティストゥーという、バスク独特の左手だけで押さえる笛があった。これはガイタと呼ばれるバッグパイプの一種のはいったバンドの、指揮者のような役割を果たす。小さな太鼓を右手でたたくために、左しか使わないのだ。 そして、横にはバスクのフォークソングやちょっと癒し系のバスクの演奏のCDを売っていた。録音も良く、僕は好きだった、今も時々東京の自宅でもかけている。フォークソングはもちろんバスク語。きれいなメロディーラインの曲が多いが、内容が霧のむこうでわからない。ただ、聞くのみのCDたち。 祭りの日にはこのバンドが町中を流して歩く。「祭りの日は人でいっぱいで“ハレオ”と言うんだよ」と宿の女主人。石段の道の向こうから、踊りの行列がくる。ティストゥーと小太鼓の先導でブラスバンドがついてくる。この日の為に着飾った人たち、普段は静かな町が華やかな衣装をまとう。広場では子供たちの、にせ闘牛が始まる、闘牛役の男の子が誰彼かまわず突っ込んでゆく。あわてて逃げる子、勇敢にも闘牛めがけて突進する子、小競り合いの後、闘牛が降参する。 ナバーラ踊りの大会をテレビでやっていたが、イギリスのアイリッシュターンと酷似しているものもある。見た目では突っ立ったまま踊っているように見えるが、下の方ではステップを踏み、飛び上がり、それでも上体は揺らさない。両手はさげたままだ。整然と何組もの人がそろって踊る。ホタやサルダーナも似たところがあるが両手は揚げている、一つの地方で地域によって踊り方が違っているのも、それはそれでなかなか独自性があっていい。 パンプローナの牛追いのことをよく聞かれる。勇壮でたくましくて、人が牛に混じって走るなんて、なんと猛々しいことか。と報道している。結局それでけが人が出たり、死人が出るのをちょっと期待しているような気がするのだけれど考えすぎだろうか。パンプローナの人が牛追いで死ぬことはまずない。あれは外国人が酔っぱらって何も知らないではいるから、やられるのだ。牛は真下まではなかなか角が来ない、だから、地べたに低く這って、頭を抱えてじっとしていれば、いつか牛は行ってしまう。牛の後から牛追いの専門家の係の人が長い竿の鞭を持って追ってきているので、瞬間踏まれるのだけこらえれば行ってしまう。そうでなく、牛が居座っても、周りで一生懸命牛を牽制してくれるからけっこう大丈夫なもの。それを、立って逃げようとするから角にかけられる、角は凶器だ、場所が悪ければ死ぬこともある。牛追いで追い込まれた牛はその日の午後闘牛に使われる牛と、案内役のおとなしい牛とに分かれている。 その日走る人は事前に警察がチェックして、明らかに酔っているやつは排除される。でも10人くらいしかその場には警官がいないので、どうしても漏れてしまって、元気いっぱい走っているやつの隣をよろよろと走る妙なやつがでる。これがあぶない。 牛追いは男の勇気を示すためにあるので、なるべく牛の斜め前を、ときに角を、持っている紙の筒で殴りながら走るのが、一番偉い。牛追いは30分で終わってしまうから大勢の人間の中で12頭の牛の頭につけるのはわずかだ。牛のつないであるところから、市役所前を通って、闘牛場まで、普通の路地を丈夫な木の柵で囲ったものだから、外国の観光客が朝早くいってもまず場所はとれない。夜中中飲んでいる連中が、明け方場所をとってしまうから。後ろの方で人の頭を見ているか、場所がとれても一瞬通過する牛を見るだけ。 だから一番いいのはテレビで見ること。そして、牛追いが終わった後ゆっくり見物に行くことだ。もちろん、牛の通るエスタフェタ通りのホテル、ラ・ペルラを予約する手もあるが、ヘミングウェイが泊まっていた牛追いのよく見える部屋などは2040年まで、ノルウエイの作家に予約されていて、たいていはとれない。15年来ているアメリカ人とか、熱狂的なファンが多い。 牛追いの後には、まず行進がある。10:30にまずブラスバンドに先導されてサン・フェルミンの御輿が出発する、その後ヒガンテと呼ばれる二人分の背丈のある人形が一人の人間に担がれて行進してゆく。7体はあるだろうか、その場で回ったりしながらの行進なのでさすがに疲れるのだろう、時々休憩しながらの行進だ。その周りを大頭の人形(カベスート)をかぶった人たちがおもしろおかしく歩いて行く。手にはタンポのついた紐のようなものを持ち、通行人をたたいて回る。たたかれた人は幸せがついてくるとでも言うのだろうが、子供なんかはおびえて泣きわめいている。行列はバス停から市役所前広場へと移って行く。沿道には射的場がでているスペインのは空気銃のことが多いコルク玉のもあるからよく選んでやらないと大変。トラックの横がそのまま開いて、賞品がいっぱいのくじが現れて客を集めている、一台ではない、8代くらい同じようなのが並ぶ。上の方には子供の倍はあるぬいぐるみなんかあって、ついやってみたくなるが、そう簡単にはあたらない。牛追いのTシャツとか、ビールとか、ずらりと並んだ店で軒並み売っている。普段はおとなしいパンプローナの人たちが、一日中、もちろん一晩中、飲んで騒いで1年分の浮かれ騒ぎを演じている。 午後は追い込んだ牛をつかって、闘牛が行われる。地元の人はペニャと呼ばれるいくつかのグループのどれかに入っているひとも多く、これはサン・フェルミンの間中食事もほとんど一緒にして、家族同様に過ごす。ペニャはもちろん全員で闘牛を見に行く。その時は、通りを集団で旗を立てて行進する。赤ん坊の頃からペニャのメンバーだという人も多いし、一年がサンフェルミンのためにあるという人も珍しくない。 エステージャに生徒たち30人あまりと来たこともある。ホセルイスの亡くなった後になるが、マノロが後を次いでいたのでその講習会に3日間だけ出席し、その後町の由緒ある教会で演奏会を開いた。響きがいい教会だった、そのすっくとそびえる様子は今なお往時の威容を誇っていた。ちょうどミサが終わった後なので客もいっぱいいて、気分良く演奏できた。僕はなんと言ってもスペインのトゥナ(学生歌)の曲クラベリートやエストゥディアンティーナがどう評価されるか気になった。案の定終わった後でスペイン語の堪能な吉住君相手に、年寄りたちがケンケンがくがく「もうちょっと早いほうがいい」とか、「いや強弱の問題だ」とか始まったが、「いちおう悪くはない」と言うところに落ち着いて解放されたみたいだった。 メンバーは大満足の様子。何しろ由緒ある石造りの教会で弾いたのだから、一生の記念になったと思う。記念写真もたっぷり撮ったし、この古びた石畳の上を600年前に巡礼が歩き、彼らが祈りをささげたところで日本人が弾くという、不思議な体験をした我々を、暖かく迎えてくれたお客たちも帰っていった。 コンサートの終わった後の市役所主催のパーティーが、会員制のクラブといった感じの、思いもよらぬ場所で行われた。エステージャにこんな場所があるなんて知らなかった。偉い人の挨拶があって、記念盾の授与式があって、スペイン式のオリーブやハモンやトルティージャのでる小パーティーが始まった。ここにでた赤ワイン、ノーラベルの特別製だったが、飲んだとき、こういうワインがスペインでもできるというカルチャーショックにも似た衝撃が最初に僕を襲った。こういうものを市役所では樽でお客用にとってあったかと思いながら、今まで飲んだスペインワインのなかで最高の味を十分楽しんだ。色といい、香りといい、甘さ、のどごし、すべてが群を抜いていた。演奏の報酬はこれで充分だと思った。 |