| アストリアス バルセローナからヒホンに向かう飛行機で、フラメンコのギタリスト、カニサーレスと一緒になった。座席も近くだったし、同じようにギターケースを持って乗っていたのでお互いに挨拶をした。おとなしい男だが肩幅ががっちりしていて、芯はしっかりしているという印象だった。パコデルシアと一緒に弾いている映像なんか、彼に負けないスピードで弾きまくっている。バルセローナに住んでいるのだそうで、今回はヒホンでコンサートを開くのだそうだ。フラメンコの人の右手の爪はアロンアルファーで固めてあって、めちゃくちゃ長い。折れたりしないのかと心配になるが、手袋をはめているわけでもないし、“オレンジを向くときとギターを弾くときは便利”と言って笑う。ほとんど1時間もなくて、大して話もしないうちに飛行機はアストゥリアス空港に着いてしまった、お互いの健康を祈って別れた。 信じられないかもしれないが、飛行機から空港の建物まで歩いて入った。小さな空港である、宿をとっていないので空港のホテル案内で宿探しをした、当たり前だがホテルはけっこうあるので、あれこれ選んでから、適当なホテルに決めてタクシーで乗りつける。部屋に入って少し落ち着いてからロビーに出たら、なんと又カニサーレスがいる、向こうもびっくりしたらしく、「世界は小さなハンカチのようなものだねえ」といった。スペイン人お得意のことわざである。日本流に言えば「世間は狭い」だろうが、ジョークやことわざの大好きな連中だ。演奏会の打ち合わせで忙しいらしく、すぐ迎えの車に乗っていってしまった。偶然とは言え今日は人に縁のある日だったのだろう。 アルベニスのピアノ曲にアストゥリアスというのがある、ギターに編曲されてからは、ギタリストの間ではもっとも有名な曲になったから、これを弾き狂ったアマチュアギタリストも多いだろう。アストゥリアスはスペインのもっとも古い歴史のあるところで、ヒホンとオビエドが中心だ。しかし、フラメンコ調の曲はこの街々にはおよそ関係ない。民謡に使われるのはアコーデオンとか、バグパイプのほうが主だ。スペインの印象で名前を付けたのか、アストゥリアスを旅しているときにこの曲が浮かんだのか、真相はわからない。スペインも北の地方では全く文化が異なっている。 とりあえず町の見物に出かけた、一応町の中心にあるカテドラル(教会)をみる、ヨーロッパの観光は教会見物の旅になってしまうことが多い、古い大きな建物と言ったら城か教会か貴族の館と相場が決まっているからしかたがない、自分が興味のある人物にまつわる教会なら喜んで見るが、教会研究家ではないので、ここのはあまり興味がないので、つきあい程度の見方で次に行く。中の構造はどこも一緒で、当たり前の話だが、十字架型の構造で中央に主祭壇がある。スペインで中を写真にとっても後でどの教会か見分けがつくのは少ない。細かい差はあるが、教会では偶然ミサに出くわしてパイプオルガンを聞くのがたのしい。 角にハモン(豚の腿の生ハム)の工場直売店があった、ハモンの山に埋まって商売をしているような店だった、天井からぶら下がるハモンたちの列がどこまでも続いて、そのうちの一角に、蹄が黒いハモン・デ・ハブゴがあった、これはうまい、チーズと並んでスペインのつまみの王様だ。ただし極上のハモン・デ・ハブゴは少し脂身がしつこい、ちょうどフォアグラがしつこく感じるのと同じで、あれが大丈夫な人には確かに極上だろうが、僕は上から2番目くらいのが好きだ。レストランでつまみとして頼むと、大皿一杯持ってきてくれるところが多く前菜の前のつまみの段階で腹一杯になってしまうのであまり頼まない、かといってその辺のバルでタパで頼もうにも、普通のハモンしかなく、ハモン・デ・ハブゴは置いてないから、こういう店で100グラム買って公園で食べることが多い。 町のメルカードのわきでドングリを売っていた栗ほどの大きさのどんぐりは食用だという、アベジャーナというやつかもしれない。アベジャーナのリキュールは好きで、食後によく飲むが実を食べたことはない。冬になれば焼き栗の屋台が街角に出る、うまいが、ちょっとのどが渇く。最近ではあろう事か同じ屋台で焼き芋も売っている、まだ試していないが一度は挑戦しなくては。 中学校の歴史の教科書の一番最初に載っているので覚えている人も多いと思うけれど、アルタミラの洞窟がサンティジャーナ・デル・マルにある。予約が必要で場合によっては断られることも多く、たいてい一年以上前からの予約でなければ見ることができない、結局見たことのある人は少ない。学者で研究とかいうのでなければ、ほかの壁画のある洞窟を見た方がよいと思う、後期旧石器時代の末期のマドレーヌ文化がカンタブリアに栄えた頃の遺跡だけで83カ所、発見されているから、案内人付きで見られるし時間も結構30分おきくらいだから、そうしたほうがいい。ホモ・サピエンスの歴史上の登場は4万年前、イベリア半島に人類が現れたのは150万年前という。どうしてもアルタミラの洞窟を見たいという人はレプリカの洞穴がマドリッドの考古学博物館の入り口の左手にあるのでそれで我慢してはどうだろうか。 そんなわけで僕はティト・ブスティーヨの洞窟に行った。リバデセーヤで発見されたのが1968年、アルタミラと同時代の洞窟で、鮮明な動物の絵の壁画が残る。ここに行くには、オビエドから観光用の乗用車を雇っていく以外にはいい方法はない。観光バスもあるにはあるが出発する日が限られているし季節によってはやってない。車はベンツで運転手とガイドが同乗するのでなんの心配もない。 リバデセーヤに行く途中、牛が30頭ばかり群れをなして道を歩いていて、牛が通り過ぎるまで10分ほど停車して待っていたりして、否応なしにのんきにかまえた旅となる。牛の次は、なんと羊である、昔羊はスペインの主要産業で、王様が羊の牧草地を保護して立ち入り禁止令なんか出したぐらいだから、いまでも大切に扱われている。メリノ種の羊というやつだ。羊はそういうことには関係なくメエとしか鳴かない。 しかし太古のロマンにひたるにはそういうほうがいいかもしれない。洞窟は崖の上にあって、当時はこれが海のそばにあって後に隆起したものだろうとは思ったが、それにしても高い崖だ、はるか下に水面が見えている。 洞窟の入り口に来るともう一家族待っていて、ここの係の人が来るのを待つ。やがて、僕たちの運転手とガイドのアントニオを入れて10人は2万年前の人の住んだ跡に少しずつ踏み込んで行った、うす暗い洞窟の中で案内人が時折大きなライトを照らす。上の方の壁面に魚の絵や、牛かバッファローのような動物の絵などが、赤い絵の具で描いてあるのが浮かび上がる。3万年たっているのに驚くほど鮮明だ、近くの壁をなでてみる、ひんやりとした感触。住居の跡というのはたき火の跡のようなもので、そういえばそうかなという程度だが、ここに暮らしていた原人がいたという証拠を見せられて何か、うれしい気がして思わず笑ってしまった。 人間が今の文明に到達するまでの気の遠くなるような年月の中を人知れずこの洞窟の中で眠っていた絵が、1968年にやっと発見された。僕が生まれたのが1953年だから15才の時になるけど、そんなキリスト歴なんかかすんでしまうほどの年月だ。ここで原人は何を夢見たのか、そのころの星空はどんなだったのかはわからない。このような洞窟に住む知恵があり、石器や火を使うことができたことは疑う余地がない。指導者がいたのだろうか、家族単位で住んでいたのか、猟の獲物をここに書き留めたのか、言葉はあったのか。人間は進化した猿とよくいわれるが、進化に150万年かかっているのだ、その間、猿は猿のままだった、もしかして何かが火を使うことを教えたのではと、つい勝手な想像をしたくなる。 太古への旅を終えてビヤビシオサのプレロマネスク様式のサン・サルバドル教会を見て、港で少し休憩する。コーヒーをと思ったが、いつの間にかワインが並んで、つまみが来てしまった、アントニオが気をきかせてアストゥリアスワインを頼んだのだ、太古の歴史のようにちょっと古びた味がした。 すぐそばには釣具屋があって沢山の竿が並んでいる、港で魚を釣る子供たちを見つめながら、「ロマネスクにプレが存在することも知らなかったね」、と僕たちはひとしきりそのことを話す、バロックやゴチックの建物ばかり700も800も見てくると、教会は基本的な設計は一緒で十字架型でつくられているので、よほど特徴がないと、どれがどの教会だったかすぐには写真を見てもわからなくなってくるが、このあたりのように8世紀や11世紀の建築を観光でまわるのはたのしい。説明をうけている時は「へーっ」と思って聞いてはいるが、興味のないことは耳を素通りしてしまうらしく後で思い出せないことも多いのに、プレロマネスクという単語はしっかり記憶に残った。 観光はますますのんびり度を強め、ヤネスの港の魚市場をのぞくことになった。大きなかしを想像してはいけない、日本で言えば伊根のようなところだ。漁師の舟も小さく、網なんかが港に干してあって、競りも威勢はいいが魚が少ないのですぐに終わってしまう。集まる人も気のよさそうな人ばかりだ、主婦風の人も7.8人混じっている。でもちゃんと半円の煉瓦作りの椅子があって後ろに番号が41まで着いている、みんなそこに座ってこの日は30人くらいだったが、あがったばかりの魚を競る。ホウボウのような魚もいた、煮て食べるのだそうだが、ブイヤベースのようなものだろうと思う。買っていくかと聞かれる、冗談だろう、買っていっても料理ができない。やっぱりこのあたりに住んでいると勘違いされている、それもそうだ、観光でこんなところに来るのがいるとは想像できないだろうから。ここから見る港の風景はひなびていて、ひょっとすると郷里福山の港の方が規模が大きいかもしれない。でも人を包み込むような暖かさがある、海の水はどこまでもきれいで泳いでいる魚が見える。 近くにはちょっとしたビーチもあるが50人くらいの人しかいない、入り江の海の水は緑に輝いている、両側にも緑の丘がせり出して、風景が緑一色に染まる。売店などない。いるのは近所の海水浴客のみ、女子供だけではない一家族できている姿が目立つ。水は冷たいにもかかわらず泳ぐ人が大勢いる。 車は海から山へ入って行く、すぐに山が迫っているのも伊根に似ている。途中、草刈りの鎌を手入れしているのに出くわしたので車を止めて見せてもらう、例のタロットカードで死に神が持っているやつだ、実物は大きいし、取っ手にはさらに持つところが別に着いていてなかなかよく考えてあるが構えて降ってみると重い。今ではモータードライブのに取って代わられていて、あまり残っていないと言うが、これを博物館入りさせるのは、惜しいような気がする。この老人のように手入れして大事に使っている人がまだいる間は大丈夫だろうが、近代化の波は静かに押し寄せている。 このあたりには名物がもう一つ、オレオである。高床式のネズミ返しが着いた穀物倉庫だ。まるで石の上に作られた正倉院のミニチュアを見ているようで、その下に現代的な新車を止めてあるのがユーモラスだ。今では冷蔵庫もあるし、本来の使い方は必要なくなってきているが、家族のガーデンパーティーに使ったりしている家もあって、しっかり残っている。伝統的な建物なので形もおもしろいし是非これからも残してもらいたい。アストゥリアス地方以外でこんなものを見ることはない。最近では農家も新しく家そのものを建て替える事が多く、オレオも現代的なコンクリート造りになったりしているが、よそから見物に来るものには昔ながらの木造の方が価値があるように思える。 車はカンガス・デ・オニースを越え、サン・ペドロ・デ・ヴィヤヌエバ教会を見に行く、おおきな教会を見慣れている僕に、このロマネスクの小さな教会は、新鮮なたたずまいで、特に入り口の屋根の出っ張りを支える柱には、郷愁さえ感じた。中にはいると薄暗く窓越しの光が筋になってのびている、その光の筋の中に埃がはっきり見えているのは愛嬌。子供の頃倉の中にはいると似たような感じで、光に照らされたもの入れの中にはアルバムなんかが入っていて、セピア色になった写真たちが古い昔の知らない世界をかいま見せ、アルバムをめくるのが楽しみだった。教会の中では、光の先は祭壇で、最初にここで説教が行われた西ゴート族の時代、人々の着ていたものが多分に想像もあるのだろうが、マドリッドの考古学博物館に展示されている。あのような人たちがここに集っていたのか。素朴な信仰の時代を生き抜いてきた教会、これ以後僕はロマネスク建築が好きになった。 コバドンガは歴史上レコンキスタの始まりとなった、ペラーヨ率いるキリスト教軍がはじめてイスラム教軍を破った古戦場だ。以後800年かけてイスラムをスペインから追い出す戦いが始まった、この地はスペイン人の心のふるさとと言われている。狭い石段を登り、山の中腹にぽっかり空いた洞窟の中にマリアを安置して、キリスト教のために戦った人々の信仰が見えてくる。それは中世の人々の夢だったのかもしれない。古くは十字軍、最近ではエルサルバドルなんかもそうだし、隣のバスク地方もそうだが、教会の司祭たちが戦いの重要な指導者となったり、銃をとって戦ったりしている。それは愛をとくキリスト教の教義と矛盾するので、東京の上石神井にあるカトリックの神父を育てる学校などでは禁書になっている。彼らは、神の呼び声を聞かなければ神父にはなれない。 かつてローマ法王がグレゴリオ聖歌を編纂したとき、スペインはイスラム支配下だったためにはずされて、イスラム色の入った聖歌はモサラベ聖歌として今に伝えられた、7?9世紀頃の話だ。それを屈辱ととらえる聖職者もいるが、シロスの聖ドミンゴ合唱団が歌うモサラベ聖歌がレコードに残されているのを聞くと、美しく単純な中に無限の想像力があり、グレゴリオだけでなくこのような聖歌が存在したことは大切なことと思う。しかしそうするとこの辺り一帯のイスラム支配を受けなかったところの聖歌はどうなったのだろう、歴史の谷間に消えてしまったのか。 レコンキスタの戦いの後首都に定められた、カンガス・デ・オニースのそばには、ローマ時代の橋に十字架がぶら下がっているのがあって、これも名物になっている。これを描いた絵はマドリッドでよく行くバルに飾られているので知っていた、こんなところまで来てしまったんだ、祝杯を挙げよう。 町に出て、シードラ(サイダーの語源リンゴ酒)を飲みに行くことにする、マドリッドでもシドレリアはあるが、本場のを一度は試さないとと、バルに入る。ガイドのおじさんは俺は一人で3本はいくといばっているが、まさかね。瓶はノーラベルでどうやら樽から移したばかりのようだ、直接樽から注ぐのではなく瓶にわざわざ移すのはちゃんとわけがある。壁に栓抜き用の、メカニックな装置と呼ぶのがふさわしいようなワンタッチのワイン抜きがあり、シードラ、というとこれで栓を抜いて、広口瓶のようなコップに一息で飲める程度の量を、瓶を頭より高く差し上げて離して注ぐ。炭酸の成分をとばすのだそうだ。それで一息で飲んで、コップの底のほんのちょっとの残りは床の上の木のバケツに捨てて、2杯目を頼む。すると又瓶を高く差し上げて注いでくれる、これはおもしろい、酒を飲んでいるのだがエンターテインメントを見ているような気がする。2.3倍飲むがアルコール度数はけっこうある、ビールくらいはあるのか酔ってくる、1本など飲めない。適当に切り上げないとまだ観光の最中だ。 僕たちはピコス・デ・エウロパにむかう、登るにつれて、山の上は霧が流れ始める。山頂には湖があり、そのほとりには黄色い花が咲き乱れ、牛が放牧されていて、広い緑の草むらの一帯の所々に岩があり、その隙間には高山植物が花を咲かせている。キャンピングを楽しむ人たちのテントが見える。妻たちが花を摘んでいる風景を、何とか記念写真を撮ろうとするのだが、シャッターに手をかけるたびに、霧がサーッと流れてくる。何度も挑戦して数枚取り終えて山を下りる、何しろ寒い。よくこんなところでキャンプをしている、夜は寒いだろうに。しかも何もないのに。スペイン人は何もないところが平気ではあるが、最近はそれでもキャンプ場には水道と薪くらいは売っていて、管理人もいる。何も設備がないのに15くらいテントがあるのを見ると、たくましいなあと思ってしまう。 ともあれ、アストゥリアスの最深部に分け入ってみたのだが、ほのぼのとした思いが残った。ガイドのアントニオは誠実に、のんびりと役目を果たしてわかれていった。僕はしばらく夕闇の中に浮かぶオビエドの町をながめていた。 |
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