アンダルシアの大地にひまわりの黄色い帯が、幾筋も地平線へとのびてまばゆい太陽へと達すると、自分の本性が明るみにでるような真昼の光に、靴の底まで照らされているような気がする。きっと日のあたるところに立つ勇気を持たなければいけないのだろう、陰にまわると気持ちが変わるかもしれないから。くっきり照らし出された世界がハレーションをおこして目を射る、サングラスを通してもまだ、きつくあたりに充満した光が満ちて、手のひらが真っ白に見える。
オリーブ畑は、ねじ曲がった枝を広げた木が、よじれた空間を作っている。規則正しく並ぼうとしてもどうしても並びきれない木々が自己主張をくりかえして、年月を経てとうとうこうなったといわんばかりに、畑のはずれですねている。水の慢性的な不足に適応する広漠とした林には、さえない色の葉っぱがしげり、おどろおどろしい形の木が、夏の日の中にじりじりとしゃがみこんでゆく、見ると、枝の先にオリーブの実がついている、まだ青く小さい。
日中は外での作業はほとんどできない、暑い暑い夏、ときたまスプリンクラーが乾いた大地に水を撒き散らす。誰一人立つもののない畑、端に詰まれた石がかろうじてそこにいた人の形跡を示し、ここに生きる人のあることを叫ぶ。オリーブの木の下に孤独な死を望んだロルカの魂の光が、ひときわ鮮やかに記憶の扉をたたく。彼が銃殺されたのはこのあたりなのか。それともあそこの木の陰か。無言の木、無言の僕。
そこから少し離れた所にあるグラナダの街のアルハンブラ宮殿は小高い丘の上にあって、砂漠の民の豊かさの象徴、“限りない水の浪費”の噴水があり、その水が流れ落ちるちいさなちいさな川がある、なぜ丘の上に川が流れる水源があるのか、向かい側の山からサイフォンの原理で水が上がってくるのだ、何という知恵だろう、そうまでして噴水がほしかったのだ、彼らは。
アルハンブラ宮殿は、古い伝説の王宮として今もそびえている。最初、イスラムの民のハーレムだったが、レコンキスタ後カトリック両王につかわれ、後に誰もいなくなりジプシーたちの住む荒れた城になりはてる。今では、縄で囲われた観光地になって、平和の口笛が聞こえる落ち着いた庭に戻っている。
ハーレムの2階には盲目の楽士たちのいた部屋があって、王と愛妾の睦言を聞くともなく聞いていた風情で、編み格子の扉が見えている。アラブの風呂は星形の窓で、大勢の女たちと一人の王というアンバランスな情景をおぼろに照らして、かつてここに暮らしたものたちの情欲をひそかに物語っている。
裁きの門をくぐって入り口に向かい、まだ入らないうちに左のテラスに行くと、アルバイシンが見渡せる。上に道路がついてからは便利になって、かなり事情が良くなったが、まだ穴蔵があちこちにあいていて、ヒタノの住居になっていたり、フラメンコを踊るタブラオだったりする。中腹が分岐点になる。
いまではここのどこかに立派なモスクができた、現地の地方新聞で大々的に報道されたが、今年の7月のことなのでまだ実際には見ていない。なぜ今頃モスクをと聞いたりするのは野暮かもしれない、イスラムにはイスラムなりの考え方がある、我々とははっきりちがう。モスクが開いたときにはずいぶんたくさんのアラブのサルタンたちがここに来た。15世紀に城を明け渡して、実に500年ぶりに帰ってきたとでもいうのだろうか。莫大な寄付金を置いていった人もいる。マホメットの教えを信じる人たち、我々とは本質的に時間の観念すら、違っているのか。このモスクが観光コースにはいることはないだろうが、異文化の民の存在は、興味深い。
それはスペイン人が僕をながめるのと同じだろうと思う。なんといっても、僕を仏教徒として理解しているのだから。ちょっとまって、僕は仏教徒なのだろうか、たしかに死んだら仏教の墓にはいるだろうから、浄土真宗の仏教徒になるのか、でも普段そういう自覚はゼロなのだ、困ったときの神頼みはそこら辺の神社で手を合わしていることもあるし、寺でも、教会でも祈る。本当は何なのか、信仰心があるのかもわからない。ただ、そういえば自分の考え方のどこかに輪廻とか、死んでからの世界とか、仏教的なものが知らず知らずに入っているのはみとめるし、神という存在については、本当にいるかもしれないと思う、人間があまりにも複雑で、矛盾を含んでいるから。でもそれと人間がやっている宗教とは別な話だ。
スペイン人の大部分も、生まれた時と、洗礼式と、8つのお祝い以外は、死ぬまで教会に行かないやつも多いので、僕と大差ない程度だろうと思う。お互い自分にないものが神秘的に見えるだけだ。神道なんかを質問されても僕も良くは知らない。そういう事は、宗教関係者が答えればいい、僕に聞かないでほしい。日本人の代表でここにいるわけではない、ただスペインが好きできているだけだ。
その日本人が、ソニーやトヨタ、ニッサン、スズキなど最先端の企業の工場をスペインに開き、世界を相手に商売をしている。それが、神秘的なことに見えるのか。僕のCDをフエンヒローラで聞かせたとき、クラリネットのプロだというスペイン人が、「日本人も芸術を理解する力があるのか。」と驚いたが失礼な話だ、今時そんな認識不足なやつは、こんな田舎にでも来なければいやしない。日本人がコンピューターやお金にしか興味がないと、どうして思うのだろう。
イスラム教となると自分の想像の外にあるし、何もわかってはいない。スペインに住むイスラムの男の話を良くスペイン人がするが、もちろん、これは“マチスモ”の話として、比喩的な話だから、イスラムの人間がこうだというわけではない。“まず平気で奥さんを殴る、「2.3発殴らないで、どうやって言うことを聞かせるのか」とかの男たちは言う。しかもいまだに妻は、顔こそ出してはいるが頭には布をかぶってないと人前には出ない。しかも男に甲斐性があれば何人妻帯してもいい。そしてコーランは暗唱している、勉強はすなわちコーランを学ぶことしかない。一番上に君臨する階層との貧農の差の大きさもアラーのおぼし召しでかたづけてしまう。”といった具合だが、僕はイスラム教の人とつきあいがないので、真偽の判断もできない。が、スペイン人は往々にしてよその国の人にに罪をかぶせるので、これはあてにはならないだろう。
アルハンブラの中に入るといろいろな木が植わり、バラが咲きみだれている。糸杉の木が目立つて多い、生け垣もそうだし、庭園には壁や迷路を造っている、ゴッホの絵にある糸杉だ。グラナダの風景の脇役としていつもほのぼのと立っている。中には日本原産の柿の木まである、もちろん、レコンキスタ後イサベラ女王たちがこの城を使うようになってから植えられたものに違いないが、海を渡ってくるその遠さを思うと、根を張ってすっくと立った姿が誇らしげに見える。
夏にはここでコンサートが催される。グラナダフェスティバルと呼ばれる。マリア・エステル・グスマンが“アルハンブラの思い出”をここで弾いたときは僕も聞いていた。音の粒たちがころころと庭の間に落ちて、きらりと光っては消えていった。うす暗い庭を照らし出して、柱の陰からハーレムの王が顔を出しそうな夜、ツバメたちが鳴き交わしながら飛び回っていた。
晩年、セゴビアがここで録ったLDが残っている、2姉妹の間、2枚の大きな大理石のある所で、録画が行われた。カザルス、モイーズ、ランドフスカ、マリア・カラス、アリシア・デ・ラローチャ、と並んで、人の記憶に残っていつまでも忘れられることはないだろうギタリストだ。
ずっと昔、まだアルハンブラの中が自由に歩けた頃、20人ぐらいのギターの生徒たちと一緒に一日ここで遊んだことがある。とても季候が良くて、みんなはしゃいでいた。ヘネラリッフェの噴水の入り口は修復工事をやっていて、道のタイルをはがして新しいものに変えていた。職人さんに「これ、くれない」というと「ああ、いいよ、もって行きな」と古いタイルをもらってしまった、のどかな時代だった。15年前くらいの出来事だったと思う。ライオンの中庭も今のように縄なんかはってはいなかったので自由に近づいて写真を撮ることができた。そんなわけで、ライオンのパティオではライオンの頭に手をかけた写真がアルバムにある。アルハンブラの中のレストランに入って食事をした時、デザートにでた昔ながらのケーキが甘かったのが妙に印象に残った。ベラの塔、コマレス宮殿、二姉妹の間、パルタルの庭、天井、壁、床、一面のモザイク模様は、偶像崇拝を禁止するイスラムの教えの通りだが、金銀で飾り立てた部屋より宇宙的な美しさで迫ってくるような気がする。
1896年、フランシスコ・ターレガがこの庭を訪れている。アンダルシアに演奏旅行に来て、保護者であるドニャ・コンチャ母娘をともなって、グラナダ滞在の間にここに来た。遠くにかすむシエラ・ネバダ山脈、日は落ちて夕日に染まろうとしているサクロモンテの丘、異質な夜イスラムの世界がよみがえる、この夜の印象を元に、“アルハンブラの思い出”が生まれた。最初は“インボカシオン”(祈り)“アルハンブラに寄せて”という題だったが、1898年の出版の時“アルハンブラの思い出”にかえられた。「アルフレッド・コタンに捧ぐ」となっている。コタンという人はやはりギタリストで前の年の秋、パリに滞在したターレガがホームシックになった時、暖かく包むようにもてなした人物だ。ギタリストの友情はターレガの心に灯をともして消えることがなかったのだ。
アルハンブラの急な坂道を降りる途中、何軒も建つギタレリアのひなびた風景が、行き過ぎる僕の注意を引いて、うろうろとこの坂の名前を記憶の中から探させる、ゴメレス坂という名が浮かんで、やっと安心して見下ろせば、坂の下では土産物屋が懸命に客を引く。一軒のギタレリアに入ってみるがたいしたギターは置いてない。フェレールの店にはいると、昔招かれて浜松で過ごした話を自慢そうにする、この程度の職人を何で招いたんだろう。
外から眺める城の姿は、ただ四角形が連続する幾何学的な城だが、夕日の中で眺めるときふわっとやさしさが漂う。右にはTorre Bermeja(朱色の塔)がイルミネーションに輝く。ワシントン・アービングの書く“アルハンブラ物語”の中にある伝説ではこの下にまだ軍勢が眠りつづけ、呼び覚まされる日を待っているというが、今の世の中では刀を持って出てきてもしらけてしまうかもしれない。
グラナダのギター製作家ではアントニオ・マリン・モンテロが有名だが、かつてベリードと組んでモンテロ・イ・ベリードとして日本に入ってきたときはあまり評判にはならなかった、その頃僕はこの楽器を手に入れている。二人が別々に作るようになってから、ベリードはドイツ語圏で有名になり、マリンは日本で有名になった、楽器は個人的な好みの要素が強いのでそれはそれでいいのだが、モンテロ・イ・ベリードは中古で20万円もしないのに、マリンとなると180万円というのは納得できない。
そのベリードの息子もギタレリアを開いているが、まだまだ見るべき楽器はできていない。いちど訪れたとき、あまりたいした楽器ではないなと思いながら弾いていると、おまえには父の楽器がふさわしいと、家まで連れて行かれた。立派な家で生活の良さが伺えたが、父親は不在で母親だけだった。お茶を入れてくれたが、あまり急な話で下話もなしだから、僕も驚いたが、母親も驚いたに違いない。父親はできたばかりのギターを持ってドイツまで行っているとかで、電話では話したが、そのときはそれだけで終わった。後に、僕の合奏団が不遜にも成り行きでグラナダ音楽祭にでることになったとき、旅先で壊れた楽器を修理してくれたのがベリードだった、団員の吉住君が2年グラナダに住んでつきあいがあったと聞いて、偶然とはいえ“世界は小さなハンカチのようなもの”というスペイン語のことわざを思い出した。
 アルハンブラの近くにはマヌエル・デ・ファリャの住んでいた家がある、電話をしておくと、中にはいることができるのでいつもと反対側の坂を下りて見に行った。神経質なファリャだっただけに、まるで病室を見るような気分で彼のベッドルームを眺める。薬瓶が置かれた枕元。グラナダの町を見下ろして、この窓の傍らで何を考えていたのか知るよしもない。彼の胸に去来する想いがやがて音楽へと昇華されて行くのか。全く違う発想で作っていたのかもわからない。ロルカの映画がDVDで売り出されたので見てみたが、それによると、彼は処刑される3日前にファリャを訪ねている、この家だ。ファリャの弾くピアノはすばらしく、ロルカを感動させている。この後ロルカは軍に捕まり処刑される、ファリャは軍政を嫌い、南米へと逃げてそこで暮らす。置き時計の針がずっとスペイン時間のままだったという。
 当時グラナダにはすばらしい文化人がいたと思う、もちろんスペイン全土にも。そしてロルカのように処刑された人、ウナムノのように反乱軍に軟禁されて死んでいった人たちがいる、惜しい人たちだった。
 こういう戦争を止められないことが、宗教のジレンマであろうことは容易に想像できるが、それでも人々の中には宗教を必要とする人が多い。ことカトリック教ということでは、日本は大変な行進国でスペインから援助をもらっている。しかしコロンビアマフィアでさえ十字を切るのがいるのが不思議でならない。ドラッグを売ったり、人を殺したりするのが平気な連中のはずなのに。彼らにも教会に行く権利があるのかどうかはわからないが。組織のボスは年間で兆単位の大金持ちらしい。スペインの新聞や物の本によると組織の力は強大で、我々の住んでいる世界のすぐ隣に、暗黒の世界があるらしい、政財界ともつながりがあり、警察にも内通者がいるという小説のような話を聞く、しかも資金源はドラッグと売春だという、こうした組織を養っているのは、何のことはないこちら側にいる僕たちの欲なのだ。
 日本に第2次世界大戦の傷跡が残ったように、スペインも内乱と軍事政権の傷跡が残ったが、それは戦争好きな連中がかってに残したもので、イデオロギーのない庶民はいつもどちらかに味方させられて損ばかりしていた日本の場合は選択の余地などなく国民全部が戦って負けた。この傷がすべて治る為にはまた数世代の忘却の時間がかかるのか、表面的にはもうその時代は過去のものになっているが、まだまだ、深い所では傷ついている。僕の両親もついこの間、靖国神社に戦で死んだ叔父の遺影を納めに来た。人間の社会は思った以上に複雑だ。ただ、宗教も犯罪も戦争も僕個人の肩に背負うのは重すぎる、そのようなことを考えていたら生きるのが大変だ、で、僕はこのような問題は政治家や、宗教家や警察に任して音楽の世界に浸って生きることに決めている。音楽上の悩みだけで充分重いものがあるので、それで手いっぱいだ。
 グラナダには教会がたくさんあるが、そんなわけで僕はいつも入るわけではない。それでもクリスマスには大聖堂に入ってみる。静かな人を眺めているのが好きだから、ひざまずいた人は美しい。何を祈っているのかはわからないが、この瞬間だけは誰もじゃまできないし、純粋だ。
 この時はちょうどミサの最中で、なんと“きよしこの夜”を歌っていた。教会のクリスマスは人をして厳かな気持ちにさせるが、この夜は格別だった。パイプオルガンに乗せて合唱が響く中、クリスマスの特別ミサは進んでいった。このあと、人々は自分の家で家族とともに静かに一夜を過ごす。僕のような旅行者はその時どうしようもない。店は休み、ホテルですら休みの所もあるから、行くところがなくなる。確保した部屋でテレビの各国のクリスマスの中継を見るか、寝るくらいしかやることはない。もちろんおやつにケーキとかチーズ、ワインは昼間のうちに買い込んである。地に平和がおとずれる時だ。
 セマナサンタ(イースター祭りのこと)の時は、春先の4月なのでまだちょっと寒いくらいだが、グラナダはにぎやかだ。「聖週間」と訳されている。夕闇が迫る頃、カテドラルに通じる大通りには、民族衣装に着飾った人たちが集まってきている。4つ位の女の子なんかまるで人形みたいにぱっちりとした目で、かわいい。当時グラナダに住んでいた画家の小松さん、広瀬さん、ギタリストの伊藤さんなんかと一緒に、通りの見える居酒屋でワインを飲みながら行列を待っていた。居酒屋は祭りに浮かれたスペイン人でごったがえしていて、それぞれがしゃべりまくっていてうるさい限りだ、もちろん僕たちも好き勝手にしゃべっている。
 太陽が沈んでしばらくした時、太鼓の刻むリズムに合わせて、少年たちのブラスバンドがおごそかな足取りで行進してきた。どの少年もキリリと引き締まったいい顔をしている。その後ろから“ペニテンテ”と呼ばれる三角のとんがり帽子をかぶり、前身を白装束ですっぽり包んだ一段がやってきた。昔は囚人が罪滅ぼしの為にこの姿で試練に耐えたのだそうだ、無論足かせをはめられて。今は一般の信者が参加する、大半は裸足で、ある物は自分より大きなはり付け用の十字架をかつぎ、ある物は鞭で自らの背中を打ちながら歩く、ある物は背丈より高いたいまつをかかげ、キリストの受けた苦しみを表現しながら歩いて行く。そして、名物のマリア像の山車がやってきた、車が着いて静かに進んでくる。普段は教会の奥に安置されていて、滅多に見られない物もあるという事だ、スペインは聖母信仰が強いので、マリアの像の方が美しく良くできた物が多い。
 昼のうちにカテドラルに行ったら、信者のささげるローソクの炎に照らされて、まるで生きているような頬に、深い光のある瞳をしていた。有名なのはコルドバの“嘆きのマリア”だが、ここのも、サン・ニコラス教会のもそれぞれ気品のある美しさをしていた。
 グワッポ(良い男)たちにまもられて、マリアとキリストの像はしずしずと行進していった。
 グラナダのセマナサンタにはもうひとつ、ヒタノのサクロモンテの行列がある。こちらは夜12時からはじまり、サクロモンテの丘のサン・ミゲル・アリーバ教会に行くのだが、サクロモンテの丘の中腹以上はヒタノの領域で夜は危険とのことで、途中までしか見られなかった。
 この行列は荒っぽく生命力にあふれ、かけ声も勇ましく丘を登っていった。あたりは真っ暗で、山車に何が乗っていたかもわからないが、かがり火に照らされたヒタノたちが勇ましくかついで闇の中に消えていった。
 この行列に、何の前触れもなく“サエタ”(矢の意味だが、この場合は投げかけられる歌)の声がかかる、喉自慢のグラナダっこが声を張り上げて神をたたえる歌を歌う。たいていは、死を前にした救世主の苦しみと、その母マリアの孤独を歌った物で、歌詞も節も即興で歌われる。
 アルバイシンを行列が通過しかかると、ある家のバルコニーから“サエタ”が投げられた。山車は決まりにしたがって、神妙に止まってサエタを受ける。夕闇に響く歌声が、人々の頭の上を通過してゆく。シギリージャにちかいものだったが、その真に迫った歌い方は、聞く物の胸を揺さぶる力があった。グラナダの人の日常とちがう顔が見える瞬間だ。
 夜の興奮はまだまだ続くが、さすがに2時近くなると、グラナドスが、僕たちがセマナサンタでグラナダにくるというので、わざわざ帰ってきて別荘の一室をを提供してくれているので、寝に帰らないと悪いという事で、小松さんに車で送ってもらった。「自由に使え」というので鍵を貸してくれるのかと思ったら、グラナダの駅までちゃんと息子と一緒に迎えに来てくれていた。本当は彼らはマラガの保養地にいるはずだったのに、僕たちの滞在中は親切にもてなしたくれたのだ。彼の年老いた母親にはこの別荘は冷え込みが強いのでマラガの暖かい海岸に逃げていたのに、彼の優しい心遣いに感謝する、持つべきものは友達である。
 この別荘は、当時は新しく、数10軒が丘の中腹に立ち並び、レストランが一軒と小さなマーケットが近くにあるだけだった。別荘は5LDKでサッカーのゴールが一個着いた広い庭付き。今はもうそんな値段では買えないが、当時は800万円位で買えた。今は4000万円くらいはしているだろう。スペインも物価が上がったから。
 翌日は9時頃起きて階下に降りたらもう、食事の支度ができて僕たちを待っていた、食事をしながらひとしきりグラナダ自慢を聞く。それから、庭でテニスをやりながら小松さんを待つ事にした、今日はクニーニで昼食の予定だ。その後は、飲むかしゃべるか、小松さんの家を見に行くか、バルにいるか、みんなスペイン流に染まっているので、あせらないし何も決めない。
 小松さんの住んでいたアルバイシン地区は、サクロモンテの丘の中腹より下にあって、ヒタノの居住する地域との境界線がしかれている。ここまではスペイン人が住んでいるので、僕も自由に行き来できる、境界線から上はちょっと勝手が違っていて、ヒタノの掟に従って世の中が動いているので、一般には危険な事もある。
 彼の部屋は暖炉のある昔ながらの典型的な民家の一室で、パティオ(中庭)を抜けて、階段を上った所にあった。この下宿は景色料が入っていて家賃が少し高いといわれている位で、屋上からのアルハンブラの眺めはたしかに壮観だ、小松画伯もここから何枚か絵を描いていて、そのうちの一枚が我が家にある、ふすまほどもある大きな絵だ。時に荒々しく、時に繊細にアルハンブラをとらえて、名作だ。
 アルバイシン地区は、商人などが多く住んでいた所で、そのたたずまいも庶民的でよい雰囲気だ。オレンジやオリーブの木が植えられてパティオ、瓦屋根、漆喰の壁、木枠の窓、これで窓の下をロバでも通れば昔の風景そのものだ。
歩道は狭く坂ばかりで、歩くとまわりに音が反射して「コツコツ」と響く。糸杉が家々の間から顔を出して、人の住む町を象徴している。
 

リナーレス
  アンダルシアは広い、いろいろな町があるが、共通するのは白く塗った家だろうか、どこに行っても白い街が続く。
 ここはリナーレスの街角、この町でセゴビアが生まれている。透明な空気の中、白日のもとで響いたギター、幼ない時の弾く喜びに満ちた音。彼の走ったかも知れないこの道をたどろう。彼の作った“光なき練習曲”が市役所の時計が正午を指すと町に流れる、響きわたるギターの音、今では町の誇りになっている。不世出の大ギタリスト、音楽する喜びを死ぬまでわすれなかった人。
 生前、彼をたたえるコンサートがマドリッドのレアルオペラで催されたことがあった。アリリオ・ディアス、ルセール・テナ、アリシア・デ・ラローチャ、ビクトリアデ・ロス・アンヘレス、そうそうたる顔ぶれが彼の為に弾いた。最後に市長がメダルを渡し、挨拶をするセゴビアのうれしそうな姿が忘れられない。彼の生演奏を聴いたことのある人は幸せだ、セゴビアの雰囲気は生でしかわからないから、ギターへのひしとした愛情が会場全体に伝わり弾く前から幸せな気分になれた。
 町はずれの広場に銅像が建つ、静かな像、何もしゃべることもない、何も音を響かせることもない。その存在の寂しさ、ギターがあってのセゴビアなのに、手に楽器がない。偉人になってしまった。もっと彼の演奏が聞きたかったのに。
 
ハエン
ハエンのオリーブオイルは他の地域を圧倒して生産量を誇る。農業が生活の支え。オリーブの収穫の季節には、老いも若きも人手といえる物すべてがオリーブ畑に集中するが、今は農閑期。街の中心の老人クラブに人が集まっている程度。
 町はずれの山を登って、パラドール、カスティージョ・デ・サンタカタリナへ。山の上に孤高の偉容をほこる城、見下ろすとハエンの町が航空写真のように見える。大聖堂がひときわ大きく、たしかに十字形に作ってある。外は暑いが、山の上だとなおさら暑く感じる、この熱が住む人々を支えるのか、生活のじゃまをするのかも定かでない。いずれにしても自然の気候の前ではなすすべもないので、中にはいることにする。広い食堂に入ると、古い時代に迷い込んだような錯覚を起こさせる。鉄製の無骨なシャンデリア、アーチ型の高い天井、置いてある家具、テーブル、全部が無骨な味を持つ。鹿のステーキが出てくる。まだこの時代は、手づかみで食べていた頃で、調味料も塩と木の実しかない、このあたりにナイフとフォークが伝わるのはフランス王がイタリアの姫をめとってから。当時ここで食事をしていた王たちは、本当にこれがよい暮らしだと信じていたのだろうか。石の文化は太陽を遮断し、人をも拒む。僕には下の町の暮らしの方が性に合っている。隣近所との屈託のないつきあいが、人生を楽にしてくれるような気がする。

ウベダ
ウベダ、旧司教長の館。城の機能は持っていない。町の中心にあるから、一歩でれば古い建物が集まっている地帯。それだけに泊まる人間にとっては、なかなか楽しい所。目の前がサルバドール教会、僕たちの泊まっている司教長オルテガの館を左に見て、右手にアルカサルがある。ウマイヤ朝のアル・アンダルスの中心として、7世紀に作られた町、整備された空間、光の中の記念写真。顔を真っ赤にして、それでも歩き回る。バージンオイルを売る店。陶器のアルテサニア(芸術品を扱う土産物屋)では実際に作るところが見られる。土が悪い為割れやすいが、それはそれで味があるのがスペイン陶器。スープ皿がおもしろいのがあった。スペインではポピュラーな水飲みの壺、ワインも入れる。どちらにしても慣れないと飲みづらい。近くなのでホテルに戻る、ホテルのバルで飲む水のおいしいこと。そのあとのコーヒーが又おいしい。朝から待ち続けた夜がもうすぐそこに。店は9時までやっていた。
夜10時になると日が暮れる、町の人が食事に出てくる。脇の公園のそばのレストランは人でいっぱい。ブランコでは幼い子が遊ぶ。昼間とうってかわってにぎやかだ。物語によくある魔法の町の夜、日の光のある間隠れていたこびとたちが、日暮れを合図に集まってきて、あっちでもこっちでもにぎやかに騒ぎ始める。こんなに人が住んでいたんだ。物語と違う、みんな現実にここにいて、散歩を楽しんでいる。